281「二つの世界での朝(1)」
意識が覚醒してくると、誰かに体を揺すられているのを感じた。
そして声も聞こえてくる。
「……きて。お兄ちゃん、起きて。ねえ」
ていうか、声が近い。
意識が覚醒してくると、目の開けなくてもすぐ側なのが分かる距離だ。
息が吹きかかりそうな距離じゃないだろうか。
ゆっくり目を開けて視線を声の方に向けると、予想通りほぼ目の前に悠里の顔があった。
床に跪いて両手でオレの体を揺らしつつ、起こしていたらしい。
息がかかりそうな距離なのは、耳元に近い距離であまり大きな声を出していなかったからだ。
時間はまだ夜明け前。外が明るくなり始めているので、夏の終わりと考えても5時くらいだろう。
「やっと起きた。さっきからずっと起こしてたのに、寝すぎだろ」
「そんなことないぞ。こっちで寝たの1時くらいだから、むしろ全然寝足りない」
「向こうじゃ、夕方に倒れたっきりだっての。……で、大丈夫?」
「大丈夫も何も、こっちの体がどうこうなるわけないだろ」
「そうだけど、聞きたいのはそうじゃない」
本気で心配げな表情だ。オレに対してこんな顔を見たのは何時ぶりだろう。
つい、ここはちゃんと答えてやるべだと思ってしまう。
「分かってるって。心配かけたな。ていうかさ、向こうのオレの体、大丈夫か?」
「ったり前だろ。駆けつけたら、ハルカさんが必死で治してたっての! あの人に心配かけんなよ!」
言葉の最後が少し大きくなる。
なるほど。オレよりハルカさん、というわけだ。
「そっか。それなら安心だな。……よっと!」
「わっ、急に起きんなよ!」
妹とニアミスをしつつ、上体を起こす。そしてどことも知れない場所に頭を下げる。
「本当、毎度お世話かけます」
「どこに謝ってんだよ。向こうで謝れっての」
「気持ちだよ、気持ち。それで、満足したか?」
悠里の顔を覗き込むと、オレが起きてすぐの時より表情は和らいでいる。
ただ、ちょっと悔しそうでもある。
「……あんなにボロボロにされたのに、全然平気なんだな」
「うーん、なんか慣れた」
「いやいや、慣れることじゃないだろ」
軽く首を傾げるオレに、悠里が軽く引いている。
戦闘職なら怪我は普通じゃないんだろうかと思うが、その辺は認識の違いだろう。
「そうか? で、悠里は大丈夫なのか?」
「う、うん。ライムも大丈夫だったし、向こうでみんなに慰めてもらった」
「どうせワンワン泣いたんだろ」
「泣いてない!」
「ハイハイ。じゃあ、お兄ちゃんが抱きしめて慰めたりしなくても平気だな」
「ハァ? 何言ってんだ。キモっ! マジ引く!」
そう言って両腕で体を抱きかかえる。
そこまで引かないで欲しいが、言いたい事は別にある。
「ほら、大声」
「あっ」
そこで一瞬沈黙があった。悠里はまだ何か言い足りない雰囲気だ。
仕方ないので、ここはお兄ちゃんとして行動しないといけないようだ。
「それで、気は済んだか?」
「済んでない」
「まだあるのか?」
「……ある」
あると言ったきり、またしばらく沈黙してしまう。
しかも俯いたので表情すら分からない。
ただここは、オレは待つしかない。子供の頃と同じならば、だけど。
そして10秒ほどすると、小さく声が響いた。
「・・・・と」
「何?」
「だ、だから、ありがとうって言ってるんだよ!」
「ほら、また大声。けどオレ、何か悠里に感謝されるような事したか?」
とぼけてではなく、本気でそう思った。
少なくとも、向こうではいつも通り行動しただけだし、ライムを助けたのはハルカさんだ。
オレがしたのは、精々時間稼ぎくらいでしかない。
そんなオレの間抜け顔を悠里はジッと見つめてくる。
思わず見つめ合う形になったけど、悠里相手だと別に嬉しくない。こうしてまた普通に話せるようになったのが、少しホッとしたくらいだ。
そうしてしばらく見つめ合っていると、不意に悠里の顔が緩んで笑みを浮かべた。
「分からないなら別にいいや。けど、ありがとう。あと、無茶すんなよ」
「おう、気をつける。けどさ、お前がそこまでオレの事心配してくれるとか、ちょっと意外」
「ハァ? 別に私がお前を心配してるんじゃないっての。ハルカさんの為に決まってるだろ。お前、あっちじゃ絶対死ねないんだろ」
「うん、そうだな。マジ気をつけるよ」
悠里にしては良い事を言う。素直に頷けてしまった。
「気をつけてるなら、あんな無茶しないだろ、普通」
「大丈夫だって。勝算が無かったらガチで逃げるし」
「どうだか」
そう言ってフッと笑みを浮かべると、「あーあ、何か色々思って損した」と呟くと、悠里はオレの部屋から出て行ってしまった。
「心配してくれてサンキュ」
小さく呟いたが、部屋を出て行く悠里には聞こえなかったようだ。
向こうなら高性能な耳に捉えられていただろうけど、こっちではお互い普通の体だ。
そしてこちらでは、今日も今日とて普通の1日を送らないといけない。
しかし今までと違い、昨日初のバイト代が振り込まれたので、今オレの懐は我が人生で最もあったかい。
バイト代は7月末からの3週間分ほどだけど、慣れるのも兼ねてかなりシフトを入れたので6桁の大台に乗っている。
次も夏休みギリギリまで頑張れば、半月分は相当シフトを入れているので、こちらも期待できる。
向こうだと大金を得てもそこまで嬉しくないが、こちらでは嬉しさもひとしおだ。
それに学校とは違う、大人や大学生が居る社会を多少なりとも垣間見る事ができるのは、オレ的には大きな経験になっていると思う。
この経験を活かして、二学期はクラスでも陰キャから脱却したいところだ。
などと今後の展望を皮算用しているが、今日はここ数日と何の変化もない。
いつものノヴァでの出来事を書いたら、今日の分の予習を少しする。そして朝食を食べて、悠里と一緒にシズさんちに行って玲奈も交えて勉強。
今日は昼を全員に奢る約束をしているので、近くの店でみんなでランチというのがいつもと違うくらいだ。
玲奈と二人きりになれないのは少しマイナスだけど、明後日は1日デートの予定なので我慢することにする。
そして昼食後は、バイトに昼からずっとシフトを入れてある。
その前にタクミから前兆夢の話を聞くと、そろそろ出現シークエンスに入っているっぽい。
けど、こっちのゴタゴタが片付きそうだと伝えて、出現しても初日のオレのようなバカな行動は取らないだろう。
そして夜に家に戻ると、このところの日課だと寝る前に悠里と少し喋って、1日が終了だ。
こうして考えてみると、意外に事件が多いように思う。
けど、『アナザー・スカイ』での事件の方が大き過ぎて平穏な日常としか思えないのは、感覚が麻痺しているせいかもしれない。





