97 主従のわだかまり
往きに比べると、帰りのペースは速かった。
立ち寄る村は最小限に。軍とともに居たことで野営が容易かったのが一因かもしれない。エウルナリア達が砂漠慣れしたから、というのも強い。
砂漠を発って五日目。華やかな旅団はそろそろ件の峡谷へと差し掛かる。
砂の色は赤茶を帯び、ごろごろと転がる岩に石。背の低い灌木がちらほらと見える。
時おりマイペースな駱駝が列から外れ、通りすがりに棘々とした草を食べていた。
――お腹を壊さないのか。ちょっとだけ心配になる。
ふと見上げると、来たとき同様、空を歪に切り取る巨大な奇岩が左右に立ち並んでいた。バルシュヤットに訊いたところ、砂が風で巻き上げられ、永い年月を経て石と化したのだという。遊牧民の古い言い伝えだろうか。
「途方もないわね……」
「何がです? エルゥ様」
揺れる輿のなか。
他意なくこぼれた独り言にいち早く反応した従者の少年に、エウルナリアは淡く微笑んで見せた。ゆるく首を横に振り、大したことじゃないと伝える。
「ううん。ここの景色もそうだけど――本で読んだのと、実際に見るのじゃ違うなって。ジールのオアシスも色々あったけど……私、嫌いじゃなかったわ」
――『嫌いじゃない』。
これまでの彼女なら、あまり使わなかった表現だ。
レインはにこっと笑んだ。
「まるで、アルム様みたいな口振りですね? たしかに東国は今回、悪くない実りをエルゥ様に与えてくれました。僕も夜這いされた経験なんかはチャラにできそうですけど……
ご存じですか? あの方、本当はエルゥ様のところにも忍ぼうか、迷っておいでだったんですよ」
「まさか」
「出立前にわざわざ手紙をいただきましたので、間違いありません。ご自身の政策を押し通すために利用された感もありますし。最初から僕達で遊ぶ気満々だったんですよ」
(――負ければ、誓約通りレガートは不利になり、僕は後宮に留め置かれたでしょうけど……)
と。
もちろん本音は漏らさない。
レインは、代わりにとても渋い顔をした。
深夜に寝込みを襲われた経験はよほど苦かったのだろう――と、やさしい方向で解釈したエウルナリアは、声を上げて笑う。
「しょうのないステラ様ね」
「……それです。貴女は、ちっとも妬いてくださらないし」
ふい、と。
おもむろにレインが灰色の瞳を逸らした。
視線の先は林立する赤茶けた奇岩。が、それらを見ているわけでないのは明らかだった。
(……)
エウルナリアは、じんわりと顔が変な表情になるのを自覚した。
笑ってはいけない。それだけはわかる。
「レイン」
「…………はい?」
なおも拗ねる響きの、涼やかな声音。
我慢できず、今度こそ笑みがこぼれた。その幸せそうな色を乗せたまま、一つ一つを言葉にする。
伝えるべきだと思ったこと、すべてを。
「もちろん……妬けたわよ? 貴方にあの方が触れたところ、教えてもらえるなら全部触れ直したい。私だってレインに忍んでほしいのにって、何度思ったことか。……――だから、オルエンの宿で貴方に飛んできてもらえたの、改めてすごいことだったんだなって、嬉しかったの。……また来てくれる? 私が一人の夜に。絶対」
「――――ちょ、ちょっと待ってくださいエルゥ様。いや、こっちは見ないで!」
「?」
妙に間を空けられたな、と思いつつ、少女は傍らで駱駝に乗る少年を窺った。日除けの外套と栗色の後れ毛のせいで、大好きな横顔は杳として見えない。
「……すみません、僕が悪かったです。ですからその……しばらく口を閉じていただけませんか?」
「え? ……あ。ごめん、気に触った?」
思いがけず示された降参と拒絶。
姫君の眉がしゅん、と下がる。嫌われたかな、と思案しつつ。
その絶妙な変化に―――レインが瞬間、爆発した。
顔が赤い。睨めつけるように主を見上げる。言い募る剣幕は中々のものだった。
「いやなわけ、ないでしょう……っ?! いい加減悟ってください!! 激烈に反対の意味です。ちょっと考えればわかるでしょう??!」
「……え」
ごめん、わからない――と言えない空気だけは辛うじて察し、エウルナリアは青い瞳に真底困惑を滲ませる。
その沈黙を、長年彼女に仕えた少年は正確に受けとった。
「もう、いいです。わかりました……言質は取りましたからね? 知りませんよ?」
「ん? うん……いいよ?」
「「「…………」」」
たまたま周囲にいたレガート勢。とくに騎士隊長のロキは固く胸に誓った。
(帰り道も、姫君がたは必ず相部屋に決定。ゼノサーラ様には、こんこんと言ってお聞かせしないと……!)
――――なぜ、従者が想い人である主のもとに夜に辿り着けたのか。
その協力者を瞬時に割り出した一行の責任者は正しく、追及の矛先を銀の皇女へと定めた。




