96 砂漠の青年(後)
「では、バルシュヤット様は既婚者であらせられたのですね」
「えぇ。姫君」
風向きの関係からか、後ろの騒動をものともせず二人は歓談する。
エウルナリアは、元々みずからの関与せぬ異分野での話を聞くのが好きだ。風土も文化も異なる砂漠。その秘せられた王の婚姻制度となると、なかなか興味深い。
(帰ったらユーリズ先生に会えるかしら。たくさん、たくさん色んなことをお話できるのに……東国でのこと)
幼い頃。
マナーや歴史を学んだ女性教師の面影を心にちらつかせながら、少女はぐいぐいと青年に質問を浴びせかける。
施政宮を出立し、自己紹介を終えたあとは、ずっとこの調子だ。浅黒い肌に精悍な頬をほんの少し緩ませ、バルシュヤットも楽しげに応じている。
――外の人間と喋るのは久しぶりだと話していた。だからかもしれない。
「既婚と言っても正妻は既に他界している。子持ちの妾が郷里に数人。……だが、俺を待ってるような女はいないだろうな。さっさと他の後添いに収まってそうだ。実家に帰ればまず間違いなく、そうされる」
「遊牧民の風習ですか?」
「そんなとこだ」
「なぜ、後宮に入られたのかお訊きしても?」
「……」
先日、並みいる群臣の前で素晴らしい歌を披露した少女の胆力は、やはり凄まじいな……と感心しつつ、バルシュヤットは破顔した。
エウルナリアは、一瞬遅れてはっとする。
「……! すみません、私、不調法なことを」
「いや、構わない。他国の者にはわからんだろうが――砂漠において、王は特別なんだ。その血筋は唯一絶対。絶えれば、大地から得た恵みのオアシスもすべて涸れ果てる、と伝えられる。その命も絶対だ。表だって逆らえるわけがない」
「……祭主とか、信仰の対象に近いですね。でも、その割りに蔑ろにされておいででは?」
ぴく、と青年の片眉が上がった。
「調べたのか」
「それなりに」
ふぅ……と視線を外し、地平の彼方へと馳せる。寄せた眉のまま、バルシュヤットはどこか他人事のように述べた。
「俺も、最初は軽んじてた。世継ぎを産んだあとは毛色の変わった男どもを取っ替え引っ替え後宮に押し込めてると有名だったからな。都から迎えが来たときはそれなりに焦ったが……実は、俺達は厳密には夫婦関係にない」
「?」
きょとん、とする少女に青年が苦笑を溢す。
「閨には何度も呼ばれてるんだが、夜通し『兵法』とかいうのを学ばされるんだ。他国の事情だの、自国の有り様だとかも。面白かったからさんざん付き合ったが――しまいには、『そなたらの駱駝の騎乗方法はなぜ我らと違う?』とまで訊かれて。……剣の使い方やら、岩場や砂漠での戦闘に即した戦い方やら何やら、兵長級の指導にまでこき使われた」
「はぁ……」
エウルナリアは想像した。およそ無邪気な顔で奔放に、次々に無理難題をかりそめの夫に与えてゆく女王。
……胸に迫るほどの説得力があった。
「だから、今回の離縁の申し出は計画的なことなんだろう。紛いなりに纏め役だった俺を失ったあいつらは、野盗と大差ない。そういう奴らだとわかってる。――まさか、四年も飼い殺しにされるとは思わなかったが」
「四年……ですか」
なかなか長い。
なるほど――と、エウルナリアは細く長く嘆息した。少し考えるように目を伏せたあと、ちらりと青年へと流す。
「それでも……奸臣にいいようにされるあの方を、これ以上見たくはないのでしょう? そんな顔をしておいでです。 ……名を呼ぶ栄誉を賜ったので言わせていただきますけど。たとえ、将軍職と引き換えであっても離縁を受け入れて宜しいのですか? ステラ様を、お好きなのでしょう?」
「姫は大人だな」
ククッ……と、青年の唇が愉快そうに歪んだ。
駱駝は進む。かれの郷里へと。――帰還ではない。一族の粛清のために。
残酷なことを為す、という意識がないわけではない。だが……と、最終的にはほろ苦い笑みが浮かぶ。
「『惚れた側が弱くなる』。古今東西、そういうものだろう。第一夫の筆頭執政官殿は仕方ないとして…………さっさと命をやり遂げて戻ってみせるさ。あの女、今度こそ求婚してやる」
「あら」
あらあら、まぁまぁと照れたように少女が口許を押さえる。
当たり前のことだが大人はそっちだと思う。自分などまだまだだし、そこまで苦難だらけの恋路など御免だ。
「……応援いたしますね」
「どうも」
ほのかに頬を染めてささやく姫君に。
未来の砂漠の将軍閣下は、にやりと不敵に微笑んだ。




