93 堕つる都
――時が、ゆるりと動く。
広間の奥と中央。銀の双子がそっくり同じ紅色の双眸で互いを結び、同時にちいさく頷いた。
すると。
「!」
ドッ ……ン、ド、ドン シャン!
ドッ ……ン、ド、ドン シャン!
唐突に、打楽器と鈴が交互に鳴り始めた。人びとは食い入るように奏者らを見つめる。
招かれたのはたったの四名。しかも楽器らしい楽器はピアノと太鼓のみ。一体何が始まるのか? ――と。
低くこもる音色の太鼓が、滑らかに響き渡る。
間髪入れず、手首をひねるのみの軽やかな鈴音があとを追う。
ドッ ……ン、ド、ドン シャン
ドッ ……ン、ド、ドン シャン
繰り返されるのは緩やかな二拍子にも思えたが――違うな、と素養ある者は気づいた。四度ほど寄せて引いたその波に、打ち寄せる泡のように微かに、ピアノが高音の旋律を乗せ始めたからだ。
右手が奏でた旋律を、追って左手がやや低い位置で若干変える。その間、右手は止まらない。また新しい音を見いだしては鍵盤を沈め、張り巡らされた弦を弾き鳴らす。
まるで、物語の始まりのように。
リズムの揺れとしては八分の十二拍子に近い。八分の六で一小節。それが二つで、一つのフレーズとなるようだ。
その、ある種呪術的な場と化した会場に。
突如、やわらかく射す光に似た声が降り注いだ。うつくしく、力強い。
観客は、ハ……ッと瞠目し、広間の中央へと視線を吸い寄せられる。
二人の歌姫が半ば目を閉じ、声をかさねていた。
正確には、つとめて楽器たらんとする張りのある中低音に、澄んだ高音が打ち震えるほどの情感を醸し、共鳴している。
メロディは、未だピアノ。
―――が、すぐに「主」は黒髪の歌姫がかっさらった。
歩く。
(…………)
歩く。
衆人が呆けたように見守るなか、エウルナリアは透ける白に水色の薄衣を幾重にもかさねた、泉の精そのものとなって歩く。
桜貝のような爪を連ねたその足が、裸足であることに気づいた者は果たして何名いただろう。
複雑な異国のことばを、遠い世界の物語のように歌い上げる少女はすでに、人の世に迷い込んだ精霊――客人だ。
彼女がぴたり、と足を止めたのはピアノ奏者の背中側。ちょうど、打楽器奏者との中間に当たる。そこで振り返り―――至極自然に小首を傾げ、ほころぶように微笑んだ。
左手は黒い椅子の背にかけられている。右手は握られて切々と。みずからの胸に、訴えるように添えて。
すばらしく深い青。
少女の稀な瞳は声とともに、会場に居並ぶすべての者を射抜いた。
―――その、視線を掠めとるように。
視界の端で、銀と白が幻想的に揺らめく。シャリン……と、あえかな鈴を鳴らす細い錫杖。ゼノサーラが舞い踊っている。
ゆるゆると、空をすべる衣装は天女の裳裾のよう。皇女の装いは、形はエウルナリアと同じだが白のみ。しかし、輝く銀の髪とつよい深紅のまなざしが、忽ち見る者を魅了した。
鈴をむだに鳴らさぬよう注意深く弧を描き、巫女舞のように極力上体を揺らさぬ動作は優雅で気品に溢れている。さすがは古王国の姫君……と、重臣のなかの誰かが深く唸り、頷いた。
奪われる。
囚われる――搦めとられる。
先ほどの。
演奏が始まる直前のゆるい温さは何処にもなかった。
シュナーゼンの太鼓は「場」を支え、鼓動のように生き生きと曲を彩っている。
レインが一人で――時おり楽しげに跳ねはするものの、オーケストラのごとき奔流を奏でている。
奏者二人の概ね完璧な伴奏。そして。
視覚を奪い、さりげなく低音のハーモニーも凛と響かせる舞姫。
耳を奪い、心を奪う。とろかせて浸食する至福の声を容赦なくメロディに乗せ、空気に溶かす歌姫。
『降参……するしか、ないじゃないの……』と嬉しげに。
誰かが、ひっそり呟いた。
* * *
砂海の真珠と謳われる名高き都、ジール。
その中枢をなす人びとは今宵この瞬間、並べてもろもろの憂いごとを捨て去った。
その、窮屈なほどがんじがらめだった意識は今、この時だけは遠国から訪れた彼女らのもの。
惹き寄せられ、酔いしれる。珠玉の時がそこにある。
――――まさに、小気味よいほどの陥落だった。




