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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 砂漠の都

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91 月からの使者のように

 しずかに、宴の間へと向かう奏者らの姿があった。


 満月の蒼い光が照らす、白い大理石の長い回廊。ひたひたと進むサンダルの足音は四名。それに、先導の女官が一名。


 若い女官は緊張していた。

 美男美女というだけなら、実のところ見慣れている。こと、この場所が砂漠の王の宮であればこそ。

 主君そのひとも、大層艶かしい美貌の持ち主なのだ。しかし――


「あっ!」


 少しのことで足がもつれ、裾を踏んでしまった。あやうく上体のバランスを崩してしまう。

 それを、横合いから伸びた手が素早く助けてくれた。客人の一人だ。

 ぱしっ! と、宙をさ迷った左手をとられる。


「大丈夫ですか?」


 少年は、涼やかな声を響かせた。女官はどぎまぎと答える。


「も……申しわけありません、その……ご無礼を」


「いいえ、構いません。お怪我がないなら良かった。――歩けますか?」


 わずかに細められる、灰色の瞳。

 姿勢のよい、すっきりとした立ち姿。

 楽器を奏でる者に相応しく、この辺りでは習慣となっている装身具の(たぐ)いは身に付けていない。衣装の袖回りもシンプルだ。


 にもかかわらず優美で端麗。かつ揺るぎない。滲みでる雰囲気に、まだ十代の女官は知らず気圧(けお)された。


「は……はい」


 若干声が上擦る。

 足元を照らすためのカンテラを再び、前方へと巡らせた。

 ――なぜだろう。夜闇を渡るかれらの先導をつとめるのは、不思議と心が浮き立った。




 やがて、漏れる楽の音とこぼれるような照明。さざめく歓談が波のように伝わる場所へと辿り着く。水流苑と施政宮(しせいぐう)を繋ぐ大回廊から、レーヌ湖畔へと伸びる一本の渡り廊下。宴の間はこの向こうにある。


 (ここまで、だわ)


 女官は少し残念そうに眉宇をひそめて振り返ると、うしろの客人らに小声で告げた。


「どうぞこちらへ。我々、後宮につとめる(もの)はこれより先に進めない()()()()ですので。

 ……廊下をまっすぐ。入り口手前に長椅子(ベンチ)がございますから、掛けてお待ちを。名を呼ばれたら中へとお進みください」


 すると、先ほどの少年に手を引かれる形で佇んでいた少女が優しく、ふぅわりと笑んだ。


「ありがとう」


「!」



 ――同性でありながら、未曾有の衝撃。

 口をぱくぱくと開閉させるばかりで、咄嗟に『いいえ』も、何の口上も返せなかった。


 少女は異国の貴族の令嬢で、高名な楽士の一団秘蔵の歌姫だという。

 カンテラの淡い光源と月明かりに照らされた、薄絹を幾重にもかさねた泉の精のような()で立ちとほっそりとした容姿。甘やかな声、うるわしい顔かたちにも魅せられる。だが、それだけでなく。


 ―――未だ歌を聴いていないのに。

 視線と声が自分一人に向けられた。ただそれだけのことに、どうしようもなく震えが走る。


 女官は慌てて顔を伏せた。

 どきどきと鳴る心音が漏れては、この方達の邪魔になるのでは……と案ぜられて。何より、独り浮わつく自分が気恥ずかしく。


 だからだろうか。誤魔化すようについ、本心が漏れた。


「こう、申し上げるべきではないのかも知れませんが……ご武運を。皆様に技芸の女神のご加護がありますように」


 客人らが、揃って軽く目をみはる。

 女官は伏せていた顔を上げると、自他ともに認める控えめな造作の顔に、困ったような微苦笑を浮かべた。


 今宵の余興については、すでにお(はした)の下女まで知らぬ者などいない。陛下がまた、心ないことを異国の恋人達に課したらしいと、(もっぱ)らの悪評だ。


 (あの方は……ご自身の評価を省みない。どこまでの暴虐が許されるかを少しずつ、御身をもって試しておられる気がする)


 それが、側に仕える者としては怖い。

 止めて差し上げたい、とも願う。


 自分には出来ないが、立ち向かう気概にあふれた目映(まばゆ)いほどの輝きを放つ、かれらならば。


 ――――と。

 


「ありがとう……大丈夫。一切の手心なく勝ちますから」


「?!」


 束の間、祈るように目線を落とす間に気配はするりと動いていた。

 意外なほど剛胆な呟きを残し、客人らはすでに廊下を歩き始めている。


 月夜の。

 光を受けて風はらむ白い薄絹と、波打つ黒髪がその背を彩っていた。


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