91 月からの使者のように
しずかに、宴の間へと向かう奏者らの姿があった。
満月の蒼い光が照らす、白い大理石の長い回廊。ひたひたと進むサンダルの足音は四名。それに、先導の女官が一名。
若い女官は緊張していた。
美男美女というだけなら、実のところ見慣れている。こと、この場所が砂漠の王の宮であればこそ。
主君そのひとも、大層艶かしい美貌の持ち主なのだ。しかし――
「あっ!」
少しのことで足がもつれ、裾を踏んでしまった。あやうく上体のバランスを崩してしまう。
それを、横合いから伸びた手が素早く助けてくれた。客人の一人だ。
ぱしっ! と、宙をさ迷った左手をとられる。
「大丈夫ですか?」
少年は、涼やかな声を響かせた。女官はどぎまぎと答える。
「も……申しわけありません、その……ご無礼を」
「いいえ、構いません。お怪我がないなら良かった。――歩けますか?」
わずかに細められる、灰色の瞳。
姿勢のよい、すっきりとした立ち姿。
楽器を奏でる者に相応しく、この辺りでは習慣となっている装身具の類いは身に付けていない。衣装の袖回りもシンプルだ。
にもかかわらず優美で端麗。かつ揺るぎない。滲みでる雰囲気に、まだ十代の女官は知らず気圧された。
「は……はい」
若干声が上擦る。
足元を照らすためのカンテラを再び、前方へと巡らせた。
――なぜだろう。夜闇を渡るかれらの先導をつとめるのは、不思議と心が浮き立った。
やがて、漏れる楽の音とこぼれるような照明。さざめく歓談が波のように伝わる場所へと辿り着く。水流苑と施政宮を繋ぐ大回廊から、レーヌ湖畔へと伸びる一本の渡り廊下。宴の間はこの向こうにある。
(ここまで、だわ)
女官は少し残念そうに眉宇をひそめて振り返ると、うしろの客人らに小声で告げた。
「どうぞこちらへ。我々、後宮につとめる女はこれより先に進めないしきたりですので。
……廊下をまっすぐ。入り口手前に長椅子がございますから、掛けてお待ちを。名を呼ばれたら中へとお進みください」
すると、先ほどの少年に手を引かれる形で佇んでいた少女が優しく、ふぅわりと笑んだ。
「ありがとう」
「!」
――同性でありながら、未曾有の衝撃。
口をぱくぱくと開閉させるばかりで、咄嗟に『いいえ』も、何の口上も返せなかった。
少女は異国の貴族の令嬢で、高名な楽士の一団秘蔵の歌姫だという。
カンテラの淡い光源と月明かりに照らされた、薄絹を幾重にもかさねた泉の精のような出で立ちとほっそりとした容姿。甘やかな声、うるわしい顔かたちにも魅せられる。だが、それだけでなく。
―――未だ歌を聴いていないのに。
視線と声が自分一人に向けられた。ただそれだけのことに、どうしようもなく震えが走る。
女官は慌てて顔を伏せた。
どきどきと鳴る心音が漏れては、この方達の邪魔になるのでは……と案ぜられて。何より、独り浮わつく自分が気恥ずかしく。
だからだろうか。誤魔化すようについ、本心が漏れた。
「こう、申し上げるべきではないのかも知れませんが……ご武運を。皆様に技芸の女神のご加護がありますように」
客人らが、揃って軽く目をみはる。
女官は伏せていた顔を上げると、自他ともに認める控えめな造作の顔に、困ったような微苦笑を浮かべた。
今宵の余興については、すでにお端の下女まで知らぬ者などいない。陛下がまた、心ないことを異国の恋人達に課したらしいと、専らの悪評だ。
(あの方は……ご自身の評価を省みない。どこまでの暴虐が許されるかを少しずつ、御身をもって試しておられる気がする)
それが、側に仕える者としては怖い。
止めて差し上げたい、とも願う。
自分には出来ないが、立ち向かう気概にあふれた目映いほどの輝きを放つ、かれらならば。
――――と。
「ありがとう……大丈夫。一切の手心なく勝ちますから」
「?!」
束の間、祈るように目線を落とす間に気配はするりと動いていた。
意外なほど剛胆な呟きを残し、客人らはすでに廊下を歩き始めている。
月夜の。
光を受けて風はらむ白い薄絹と、波打つ黒髪がその背を彩っていた。




