90 酔わぬ女王、食えぬ食客
音が、降ってくる。正しくは声。
褐色肌の細身の少年が広間の中央で目を閉じ、歌う。
かれの周りをさまざまな弦楽器が、横笛が囲む。
哀切を帯びる曲調はこの地特有の音階。砂漠のただ中で、駱駝の背に揺られてこそ口ずさみたくなるリズム。それを朗々と歌い上げている。
女性でも、この音域で声を張るのはきつかろう。それを苦もなく地声でやってのける姿には舌を巻く―――が。
(シュラト、だったか。こんなところで腐ってないで、レガートに来ればもっと良くなるのに)
感心と呆れ半々、女王の食客として滞在中の画家ベリル・キーラは、手のなかの杯をゆっくりと傾けた。
とろり、とした果実酒。濃厚な甘味が舌先をとろかせ、熟れた芳香が鼻腔に突き抜ける。きつい。容赦なく度数の高い酒だった。
ベリルは杯に口を付けたまま、さりげなく辺りを窺う。
宴の間に集められたのは男性が多い。今は水の仕掛けを止められた最奥の蔦花の壁を背に一段高い席を設け、しどけなく幾つものクッションをかさねた座に寛ぐ女王は、今夜もうつくしい。
王位を示す金の飾環が額を飾り、細かく編まれた髪には大小の真珠が組み込まれ、星のよう。
ごく薄い紗を被り、いつものように体の線にぴたりと添う衣装は極上の光沢を放つ絹。藍色に染められたそれの、胸元と裾には満遍なく金糸の刺繍が施され、豪奢の一言だ。
艶かしい、濃い蜜色の肌を飾るのは精緻な意匠を彫り込んだ細い腕輪の数々。これもまた黄金。
それを――隣からちらちらと眺める。さらに、その向こう。渋面の第一夫にして筆頭執政官のリザイを。
(難儀な夫婦だ)
王が女性である場合、後宮は男性だらけになる。女王以外の女性は、側仕えの近しい身辺係のみ。その筆頭が女官長として夫達の待遇その他を管理し、采配する。
彼女らの実務に関する権力は絶大だが、完全なる裏方のため、このような公式の場には出られない。
お目付け役が不在の宴。
当代女王は繊細な美形が好みらしく、どの夫も見目がよい。名家の子息から市井の子まで、よりどりみどりという。
ざっと数えて二十七名。シュラトを除けば総勢二十六名のかれらは、今宵ばかりは表情を和らげて羽を伸ばしているように見えた。思い思いに歓談し、酒肴に舌鼓を打っている。
下座の周辺部は、同様の配置で施政宮の重臣達。
こちらは年配者が多く、面白くない顔が目立つ。女王子飼いの、雛鳥のような少年の懸命な歌も、かれらにとっては常と変わらない。ただの余興なのだろう。
――愁える臣と蔓延る侫臣、享楽的な女王の温度差が激しい。
ベリルは砂漠の都の実情をそう捉えている。一般的な暗君なら、かれらも如何ようにも彼女を飼い殺しにしたのだろうが――……
「どう、ベリル? 楽しんでいて?」
「は。陛下」
「そう? 心ここにあらずだわ。そんなに気になる? あなたの同郷の子達」
「ふふっ、それは……仕方ありませんよ。貴女が離してくださらないから、私は半年しか自由に動けない。あちこちで寄り道すると、結局キーラ邸で寝泊まりできるのは年に数日だけ。信じられますか」
「まあぁ……大変ね。いっそ、ここに住めばいいと思うわ」
「御免です」
ころころころ……と口許に手を添え、女王は上品に笑う。
口達者な異国の女流画家を、彼女はひどく気に入っている。もう一人、その妹の画家もビスクドールのような容貌に反し、舌禍が凄まじい。
もちろん、ただ無礼なだけでない。妙に心根が素直で側にいると気持ちがよいのも、姉妹を交互に呼びつけ、傍らに侍らせる由縁だった。
女王は――声がいいとシュラトを褒めつつ、大して耳を傾けたりはしない。
手元の酒杯にも。嗜むが、決して溺れない。
いたずらに美男を集めては寵を与え、名家の紐付き夫らの派閥を乱し、国境で野盗の一団と化す遊牧の民の長も末席に加え、なかば放置。おかげで残された一団はバラバラに散り、烏合の衆だという。
が、たまに品行方正な第一夫への当て付けのようにそれすら閨に招く。つまり。
(この人……嫌がらせの天才なのよね。しかも、絶妙に破綻しない)
耳にすんなりと届く、澄んだ歌声も彼女の心には響かない。酔わない。
果たして、エルゥ達はどうやってこの女王を潰すのか。
ベリルは邪気なく、にこりと告げた。
「……気になって仕方ありませんよ。えぇ、本当に」
――――嫌いじゃない。
嫌いじゃないが、貴女は一度痛い目に遭った方がいい。
言外にそう含ませ、ずるずるとこの六年間、友人のような立ち位置に縛られる風景画家は一呼吸おいたのち、外交用の完璧な笑顔をまとい、雇い主へと微笑みかけた。




