89 めざめる歌姫
控えめに言って負けるわけにはいかなかった。
全力で勝つため、グランドピアノを運び入れてもらったり。宿にて待機中の騎士らに手紙を届けてもらったり。ゼノサーラが請け負う形で本番用の衣装を手配したり――目まぐるしく各自で立ち回り、昼前の現在に至る。
シュナーゼン皇子に、流水の仕掛けを止めに行ってもらったのはそんなときだった。
誓約書を持った書記官が、慇懃な礼を残して去ってしばらく。皇子はまだ戻らない。
先王が購入したと言うピアノは質も良く、保存状態も悪くなかったが如何せん音律が狂いすぎていた。誰も弾くものが居なかったとあっては仕方ないのかもしれない。
専用道具も一緒に保管されていたのがせめてもの救いと、レインは黙々と調律――ピアノのチューニング作業――につとめている。
弦の調節だけではない。ハンマーの硬度と弦への当たり方。それらすべてを整えるのは中々根気の要る作業だった。
が、自分の身柄と国運、ひいては主の命運まで掛かっている。この上なく真剣にならざるを得ない。
どのみち、負け戦はしない主義だが。
――『勝つ。しかも圧倒的に』が、かれの音楽的座右の銘と知るのは、意外にも主の少女と故国の幼馴染み、グランだけだった。
周囲に言えば『あぁ……』と、全員一様に納得の色を浮かべるだろうけど。
一見寡黙な従者を間に挟み、少女らはひそひそと作戦会議を進める。
「ね、どうするの貴女。わかってるだろうけど、わたしは独唱の器じゃないわよ」
「そうですか? サーラの声は誇らかで、張りと芯があって好きですけど……大丈夫。実は、歌声は戻りました」
「えっ?! いつ!」
「!! 本当ですか!」
ばっ! と、二人同時に視線と眉が跳ね上がる。
エウルナリアは若干、申し訳なさそうに肩を縮込ませた。
「……今朝はやく。目が覚めたので部屋からレーヌ湖を眺めていたら……なんとなく。黙っていてごめんなさい。一声しか確認していませんが―――歌えます。絶対に。でも」
言うや否や、すぅっ……と身を引き、令嬢は胸に手を当て頭を垂れた。滅多にとられることはない、それは深い、淑女の謝罪の礼だった。
(え)
思わずの体で、ゼノサーラが気色ばむ。制止のために手を伸ばした。
「! っ、ちょ、頭あげなさいよエルゥ。なんで―――」
「いいえ、謝らせてくださいサーラ」
「……」
不承不承。すん、と口をつぐむ。
こうあっては一歩も二歩も下がらない、親友の気性は熟知している。
親友と恋人が見守るなか、エウルナリアは滔々と胸の裡をこぼした。
「――長く。この旅の間中、助けていただきました。貴女とシュナ様と、騎士や近侍の方々に……それに……レインに。でなければ私、きっとずっと歌えないままでした。立ち向かう勇気も出せないまま」
そっと、面が上げられる。
澄んだ空気。柔和な表情。見るものに分け隔てなく、ある種の幸せと心地よさまでもたらす、どこまでも精霊のような少女。
父譲りでもある、その美貌に―――いまや隠しようもない剛さをぴん、と一筋通らせて。
意外にも。
みなぎる気配は闘うもののそれだった。
ふつふつと沸く怒り。追い詰められた崖っぷち感。失いたくないと足掻く気持ち。諦める道理はどこにもないと、みずからが拠って立つもの。
歌うこと、そのものを唯一の武器と定めた少女。
それはひどく不器用で――どこか湖の小国の歪な有りように似ていた。
うつくしいが頑なで脆く、奪われればひとたまりもない。
だが、例えようもなく得がたい。心まるごと惹かれてやまぬもの。
俯瞰すれば愚かしいほどの拘りに満ち、それを―――あえて、善しとするもの。
エウルナリアは微笑んだ。
それは、負けなど露も認めない。今までの彼女からは想像も出来ない類いの笑みだった。
謝罪のため、たおやかに胸の前で組まれていた手を片方、宙へと滑らせる。視線をともなう細腕の羅針盤は大広間の端から端へ。最奥の流水の壁でぴたり、と止まる。
小さくひらく珊瑚の唇。
紡がれたのは、いつもの銀鈴を振るう可憐な声。
が、内容は確信に満ちた断定で、動かしようのない決定事項だった。
「歌います。勝ちます。……ですからレイン、サーラ。一緒にやりましょう。今は席を外しておいでですが、勿論シュナ様も。
――――後悔させてあげましょう? あの方に。ぜひ、今後とも長く私達を『ご贔屓』していただくために」
「!」
青い瞳の妙なる顔に、深く、華やかな笑みが浮かび上がった。まるで宴の。本番のさ中のように。
(この子……やっぱり歌長なんだわ。アルムの後を継げる。唯一の)
ぞくり、と背筋を言いようのない波が這い上がる。
怖いのではない。むしろ――半ば、目の前の少女に魅入られたようにぞくぞくと、高揚が溢れて止まらないのだ。勝手に頬が紅潮する。
しん、と、静寂が広間を支配した。
最奥の壁の下、緑葉と花弁のたゆたう室内池がいつの間にか凪いでいる。飛沫一つあげず。
「シュナ様、……やってくださったようですね」
エウルナリアが笑みを取り払い、居住まいを正す。
ふと、まとった空気を和ませると、ピアノの脇に置いておいた楽譜と衣装の小山にすたすたと向かった。
「さ、サーラ。決めちゃいましょ、曲さえ決まれば伴奏は即興でも構いません。
レインは全速力で完璧な調律を。シュナ様が戻られたらすぐに打ち合わせよ。貴方を、今回の首席奏者に任じます」
「! わかった」
「御意に」
水を得た魚のように、生き生きと動き出す少女らに少年。その表情は楽しげですらある。
奏者にとっての、水。
楽士らはつまり、戦う場と無音を得た。




