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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 砂漠の都

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88 調律と布石

 ポーンンン……と、基音と倍音がややずれて重なる。

 む、と涼しげな眉をひそめたレインは慎重な仕草でチューニングハンマーを手前に回した。


 再度、まったく同じタッチで左の中指が鍵盤に沈む。――今度はもう一段階絞めたあと、やや戻して緩めた。


「低いね」


「えぇ」


「どう? ハンマーのフェルト、硬化してるよね。()()()も借りて来ようか?」


 同じく鍵盤を覗き込み、左耳に長い黒髪をかけながら、エウルナリアは心配そうに問いかけた。が、レインは(かぶり)を振った。


「いいえ、それは調律用一式が納められていた、こちらの箱に入ってましたから。それより……シュナ様?」


「ん、何?」


「この部屋の水、今日の宴が終わるまで止められないか、女官のどなたかに掛け合ってもらえます? あっても出来ますが、ないほうが楽です。倍音も……余韻も、流水音に食われてしまうので」


 灰色の瞳が、ちらりと広間の最奥、すぐ側を流れる清水の壁へと向けられる。

 そこに感情の色はない。あえて言うなら「無」に近かった。それだけ、手元の作業に集中している。


 かたや、一介の貴族令嬢の従者。かたや、一国の第三皇子。

 ――けれど、今は同じ皇国楽士で気心の知れた戦友のようなもの。シュナーゼンは気負うことなく「だろーね。待ってて」と告げ、さっさと広間をあとにした。


 あえかな水音に包まれた、がらん……と広い宴の間。レインは作業を再開した。

 エウルナリアとはほぼ反対。鍵盤の高音側に立っていたゼノサーラは、ほぅぅ……と、ため息をつく。


「不幸中の幸いと言うか……良かったわね。(ここ)にグランドピアノがあって」


 屋根と呼ばれる天板を押し上げ、むき出しとなったピアノの心臓部分。

 手早く隣の弦に移るため、差し込んだフェルトウェッジの位置を正確にずらしつつ、レインはにこりともせず頷いた。


「まったくです」


 ポーンンン……と、同様の打音。弦を打ち震わせるハンマーの音。かれは、また眉をひそめてチューニングピンをわずか、手前に絞めた。




   *   *   *




『――わかりました』


 朝食の席で、あのあと。

 ぎょっと目をみはる三名をよそに、エウルナリアは淡々と即答した。

 しかも、困り顔でさらなる火種を投下する。


『ですが陛下。わたくし、実は諸事情あって今は歌えないんですの』


『……あら、そうなの? なにか誓約があって?』


『…………(なにを。何をわざわざ暴露しちゃってんの、エルゥぅぅーーーっ?!!)』


 うっすらと青ざめたゼノサーラが心中で思いっ切り叫ぶ。おおよそ同じ心境を、左右の少年らも胃痛とともに抱えた。気のせいではなく。


 悲しげに視線を落とし、右頬に手をあてて嘆く乙女そのままのエウルナリア。

 嬉々とした瞳を瞬かせ、興味深そうに頬を緩める女王。

 一対の、対照的な女性の会話は続く。


『いいえ。治療師――サングリードの司祭様の見立てでは心因性ではないかと。……歌えないのですわ。ですが、私とてレガートの歌い手。今夜の刻限ぎりぎりまで諦めたくありません。

 ですので――……せめて後手に。そちらのシュラト殿のあとで歌わせてくださいません?』


『いいわよ、それくらい。で? もしも貴女がだめでも、皇女様が歌ってくださるのよね?』


 (!!!)


 言外に、勝ったも同然と含むまなざしを投げ掛けられる。

 ゼノサーラの顔が険しくなった。察した兄皇子がいちはやく、パシン! と右手で彼女の口をふさぐ。


『~~っ!』


 紅の瞳に怒りをたぎらせた皇女が何事か訴えているが、明澄な言葉はついぞ漏れなかった。

 もがもがと可愛らしい唸り声のみ、皇子の手のひら越しに伝わる。

 シュナーゼンは、しれっと代返(だいへん)した。


『もちろんです陛下。僕も楽器は嗜みますし、サーラはこう見えて歌えます。我らが歌姫の不調は全力で支えますので、どうぞご心配なく』


『ふぅん? 良かったじゃない。心強いことねエウルナリア殿』


『えぇ。勿体ないことです』


 しおらしく肩を落とすエウルナリア。

 小首を傾げて微笑むさまは、いっそ儚げですらあった。


『では』


 さら、と衣擦れの音が立つ。

 ―――女王がやんわりと腰を上げた。会席の終了を告げるさやかな音だ。

 今いち事態を呑み込めていないシュラトも慌てて立ち上がり、先回りして彼女の右手をとった。退出のエスコートか。


『今宵、楽しみにしているわ。精一杯復調につとめてね。それと……シュラトが勝ったら、なのだけど』


『はい?』


 真っ直ぐなまなざし。深い、青の瞳が見上げてくる。

 女王は擦れ違いぎわ、半身を優雅に折ってエウルナリアの耳許に囁いた。

 ()()は、実に小声で落とされた爆弾発言。


『(貴女の従者、気に入ったから後宮でもらい受けるわね。……あとで書面を届けさせます。さっきの交換条件と同等の扱いで。正式に)』


『!! な……っ?!』


 思わず方膝をつき、半立ちになるも、つっと人差し指で肩を押された。(とど)められるように、再びその場に座らせられる。


『ふふ。でなければ此度(こたび)(いくさ)、ジールはウィズルに便乗するわ。――風前の灯火(ともしび)の国意、背負ってらっしゃるのでしょう?』


 がんばってね、と優しげな笑みと声音を残し、女王は退出した。




   *   *   *




 (予想の範囲だけど……やってくれるよね)


 シュナーゼン皇子と入れ替わりに訪れた書記官。かれが携えた筆記版に挟まれた、おそらくは羊皮紙。

 がりがりと備え付けの鷲ペンで当該書類に記名しつつ、少女は回顧した。布石のためだったとはいえ。


 ―――それはそれは、見事なまでに一方的な通達だったのだ。


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