88 調律と布石
ポーンンン……と、基音と倍音がややずれて重なる。
む、と涼しげな眉をひそめたレインは慎重な仕草でチューニングハンマーを手前に回した。
再度、まったく同じタッチで左の中指が鍵盤に沈む。――今度はもう一段階絞めたあと、やや戻して緩めた。
「低いね」
「えぇ」
「どう? ハンマーのフェルト、硬化してるよね。やすりも借りて来ようか?」
同じく鍵盤を覗き込み、左耳に長い黒髪をかけながら、エウルナリアは心配そうに問いかけた。が、レインは頭を振った。
「いいえ、それは調律用一式が納められていた、こちらの箱に入ってましたから。それより……シュナ様?」
「ん、何?」
「この部屋の水、今日の宴が終わるまで止められないか、女官のどなたかに掛け合ってもらえます? あっても出来ますが、ないほうが楽です。倍音も……余韻も、流水音に食われてしまうので」
灰色の瞳が、ちらりと広間の最奥、すぐ側を流れる清水の壁へと向けられる。
そこに感情の色はない。あえて言うなら「無」に近かった。それだけ、手元の作業に集中している。
かたや、一介の貴族令嬢の従者。かたや、一国の第三皇子。
――けれど、今は同じ皇国楽士で気心の知れた戦友のようなもの。シュナーゼンは気負うことなく「だろーね。待ってて」と告げ、さっさと広間をあとにした。
あえかな水音に包まれた、がらん……と広い宴の間。レインは作業を再開した。
エウルナリアとはほぼ反対。鍵盤の高音側に立っていたゼノサーラは、ほぅぅ……と、ため息をつく。
「不幸中の幸いと言うか……良かったわね。宮にグランドピアノがあって」
屋根と呼ばれる天板を押し上げ、むき出しとなったピアノの心臓部分。
手早く隣の弦に移るため、差し込んだフェルトウェッジの位置を正確にずらしつつ、レインはにこりともせず頷いた。
「まったくです」
ポーンンン……と、同様の打音。弦を打ち震わせるハンマーの音。かれは、また眉をひそめてチューニングピンをわずか、手前に絞めた。
* * *
『――わかりました』
朝食の席で、あのあと。
ぎょっと目をみはる三名をよそに、エウルナリアは淡々と即答した。
しかも、困り顔でさらなる火種を投下する。
『ですが陛下。わたくし、実は諸事情あって今は歌えないんですの』
『……あら、そうなの? なにか誓約があって?』
『…………(なにを。何をわざわざ暴露しちゃってんの、エルゥぅぅーーーっ?!!)』
うっすらと青ざめたゼノサーラが心中で思いっ切り叫ぶ。おおよそ同じ心境を、左右の少年らも胃痛とともに抱えた。気のせいではなく。
悲しげに視線を落とし、右頬に手をあてて嘆く乙女そのままのエウルナリア。
嬉々とした瞳を瞬かせ、興味深そうに頬を緩める女王。
一対の、対照的な女性の会話は続く。
『いいえ。治療師――サングリードの司祭様の見立てでは心因性ではないかと。……歌えないのですわ。ですが、私とてレガートの歌い手。今夜の刻限ぎりぎりまで諦めたくありません。
ですので――……せめて後手に。そちらのシュラト殿のあとで歌わせてくださいません?』
『いいわよ、それくらい。で? もしも貴女がだめでも、皇女様が歌ってくださるのよね?』
(!!!)
言外に、勝ったも同然と含むまなざしを投げ掛けられる。
ゼノサーラの顔が険しくなった。察した兄皇子がいちはやく、パシン! と右手で彼女の口をふさぐ。
『~~っ!』
紅の瞳に怒りをたぎらせた皇女が何事か訴えているが、明澄な言葉はついぞ漏れなかった。
もがもがと可愛らしい唸り声のみ、皇子の手のひら越しに伝わる。
シュナーゼンは、しれっと代返した。
『もちろんです陛下。僕も楽器は嗜みますし、サーラはこう見えて歌えます。我らが歌姫の不調は全力で支えますので、どうぞご心配なく』
『ふぅん? 良かったじゃない。心強いことねエウルナリア殿』
『えぇ。勿体ないことです』
しおらしく肩を落とすエウルナリア。
小首を傾げて微笑むさまは、いっそ儚げですらあった。
『では』
さら、と衣擦れの音が立つ。
―――女王がやんわりと腰を上げた。会席の終了を告げるさやかな音だ。
今いち事態を呑み込めていないシュラトも慌てて立ち上がり、先回りして彼女の右手をとった。退出のエスコートか。
『今宵、楽しみにしているわ。精一杯復調につとめてね。それと……シュラトが勝ったら、なのだけど』
『はい?』
真っ直ぐなまなざし。深い、青の瞳が見上げてくる。
女王は擦れ違いぎわ、半身を優雅に折ってエウルナリアの耳許に囁いた。
それは、実に小声で落とされた爆弾発言。
『(貴女の従者、気に入ったから後宮でもらい受けるわね。……あとで書面を届けさせます。さっきの交換条件と同等の扱いで。正式に)』
『!! な……っ?!』
思わず方膝をつき、半立ちになるも、つっと人差し指で肩を押された。止められるように、再びその場に座らせられる。
『ふふ。でなければ此度の戦、ジールはウィズルに便乗するわ。――風前の灯火の国意、背負ってらっしゃるのでしょう?』
がんばってね、と優しげな笑みと声音を残し、女王は退出した。
* * *
(予想の範囲だけど……やってくれるよね)
シュナーゼン皇子と入れ替わりに訪れた書記官。かれが携えた筆記版に挟まれた、おそらくは羊皮紙。
がりがりと備え付けの鷲ペンで当該書類に記名しつつ、少女は回顧した。布石のためだったとはいえ。
―――それはそれは、見事なまでに一方的な通達だったのだ。




