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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 砂漠の都

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86 立ち戻りて、繋ぐ指

 たえず、水の気配――音が伝わる。


 昨日、会見に臨んだ落水(らくすい)()ほどではない。

 宮殿中に巡らされた小川のような水路。そのかそけき音色が、覚醒を始めた意識にゆるやかに(まと)う。

 大きく取られた窓の縁はうっすらと(あけぼの)の光に満ち、(起きなくちゃ)と彼女に思わせた。


 そぅ……っと、滑るように寝台から足を降ろす。借り受けた夜着は透ける素材で、肌当たりは(すこぶ)る良いが色々と恥ずかしい。


 足元に畳んでおいた衣装を羽織り、胸の前でかき合わせると、エウルナリアはまだ薄暗い室内を裸足で歩いて、光の滲む窓辺まで辿り着いた。

 カチン、と施錠を解き、戸を押し開くと―――


「! うわ、ぁ……」



 知らず、感嘆が漏れた。

 宮を守る外壁の向こう側。

 部屋に通された昨夜は気付けなかったが、眼下に広がるのは巨大なオアシス。レーヌ湖というらしい。

 故国のレガート湖ともセフュラのキウォン湖とも(おもむき)が異なる。圧巻だった。


 波は少ない。濃紺の湖面をぐるりと覆う椰子の木々は、丈高く密集している。

 砂漠では緑の色合いが、ことさら奇跡のように映る。その、もこもことした葉の根元から周辺区域を、うつくしいモザイク模様の石畳が端正に囲む。


 遠く、湖の対岸に白い街並みが見えた。

 せり上がる砂の壁は稜線を描くように風景を空から切り取り、オアシスの存在感を際立たせている。


 うるわしい、《砂海(すなうみ)の真珠》とも呼ばれる都ジール。

 この、奇跡のような佇まいに旅人は焦がれ、一様に心を打たれるのだろう。


 (昨日のことも……今日のことも。悩んでたのが馬鹿らしくなっちゃうな。女王(あのひと)が何を言い出しても、それは、こっちを困らせたいだけ。そんな相手の意に添う必要、何処(どこ)にもないもの)


 もし、無理難題を吹っかけられたら。

 かけられた分だけ、如何(いか)ようにも(かわ)し、弾けばいい――!



 瞳に力が宿る。

 どきどきと、苦しいほどの鼓動。沸き上がり、胸を満たす緊張と紙一重の高揚感。


 あ。これ、何かに似てるな……―――と。



「!!」


 突如合わさる、感覚と記憶。

 大きな、大きなあかるい舞台。

 それは、並みいる聴衆の前で。みずからの歌を披露する直前まで抱えていた、()()()()()()()にそっくりだった。



 じわり、じわりと広がる(よろこ)び。指先まで駆け巡る熱。


 (ひょっとして……?) 


 少女は逸る胸を押さえ、目を瞑り、少しだけ息を吸う。


 聴くもののいない空に向けて。

 ――可憐な唇を、ひらいた。




   *   *   *




 午前七時半。

 それぞれの客間の前の通路にて、四名は集合する。

 普段なら、締まりがないなりに煌びやかな容貌のレガート第三皇子が、今朝はしんどそうだ。

 二日酔い……? と(いぶか)しんだが、昨夜は大して飲んでいない。違うな、と秒で浮かんだ理由を棄却する。


 いつもは高い位置で括っている不揃いな銀髪を、今日は肩と背に流している。すると、顔だけ見れば紛らわしいほどゼノサーラとよく似ていた。

 ただし表情は緩い。妹姫はもっと凛々しく、キリッとしている。


 くすっと笑んだエウルナルアに、シュナーゼンは早速近づいた。やや遅れてレインもあとから続く。



「ううぅ~……おはよ。エルゥ、サーラ」


「? おはようございますシュナ様。すごく眠そうですけど……お休みになれませんでした?」


「そう、夢見が悪くて。深夜にレイン(こいつ)は起こしに来るし。どうせ忍んで来てくれるなら、君が良かった」


「私は熟睡でしたから」


 言外にそれは無理、とあっさり表明し、令嬢はちらりと青い瞳を従者の少年へと向けた。

 意図を正確に汲みとった少年は、すかさず事情説明をこなす。


「隠すことでもありません。昨夜、女王陛下が僕の部屋に来られまして」


「「えっ!」」


 柔らかな高音(ソプラノ)と、張りのある中低音(アルトボイス)が同じ音符で綺麗にかさなる。

 エウルナリアとゼノサーラは固まった。凍てつく視線の先はもちろんレインだ。

 レインは珍しく、ひどく不機嫌な顔になった。


「――未遂ですよ。指一本……は、触れさせてしまいましたが。あとは一切。誓って、何もされていません」


「釈明の……方向性がさすがよね、あんたって。びっくりなのは陛下にだけど」


「同感です」


 一行は、摘みたての花を浮かべた水路や室内池の脇を通り、赤やマゼンタ色のブーゲンビリアが柱に絡まる渡り廊下をそぞろ歩く。


 今朝がた、朝食を報せに来てくれた女官から案内を申し出られたものの、夕食と同じ場所と聞いて、丁重に断った。

 ゆえに今は四名だけ。朝陽を浴び、抑えた声で歓談しつつ、のんびりと進む。


 旅が始まって以来、騎士達――本当の大人と呼べる面々と、ここまで別行動なのは初めてだった。


 だからだろうか。

 現在、自分達の結束は妙に固いと感じる。双子のどつき合いも、レインの塩対応も今朝はとうとう見られなかった。


 (仲がいいのは良いこと……なんだけどね?)


 ―――触れたいな、と思うと同時に。

 前方をゆく双子の後ろ、隣に並ぶかれの左手をとった。

 何となく、繋がりたくて。


「……」


 瞬間、足運びの鈍った従者の顔をひょこっと覗き込む。

 灰色の瞳は伏せぎみで、栗色の睫毛がきれい。エウルナリアの好きな角度だ。

 少し頬が赤いのは、気のせいではなさそう。


「エルゥ様」


「ん?」


「手…………いえ、何も。遅れてしまいますね。行きましょうか」


「うん!」


 繋がれた右手。

 明らかにエスコートではない、互いの存在を確かめ合うような指の触れ方。


 ―――それが、ほのかに温かく、嬉しく。

 決戦に挑む前の少女の心は、つよく満たされた。


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