86 立ち戻りて、繋ぐ指
たえず、水の気配――音が伝わる。
昨日、会見に臨んだ落水の間ほどではない。
宮殿中に巡らされた小川のような水路。そのかそけき音色が、覚醒を始めた意識にゆるやかに纏う。
大きく取られた窓の縁はうっすらと曙の光に満ち、(起きなくちゃ)と彼女に思わせた。
そぅ……っと、滑るように寝台から足を降ろす。借り受けた夜着は透ける素材で、肌当たりは頗る良いが色々と恥ずかしい。
足元に畳んでおいた衣装を羽織り、胸の前でかき合わせると、エウルナリアはまだ薄暗い室内を裸足で歩いて、光の滲む窓辺まで辿り着いた。
カチン、と施錠を解き、戸を押し開くと―――
「! うわ、ぁ……」
知らず、感嘆が漏れた。
宮を守る外壁の向こう側。
部屋に通された昨夜は気付けなかったが、眼下に広がるのは巨大なオアシス。レーヌ湖というらしい。
故国のレガート湖ともセフュラのキウォン湖とも趣が異なる。圧巻だった。
波は少ない。濃紺の湖面をぐるりと覆う椰子の木々は、丈高く密集している。
砂漠では緑の色合いが、ことさら奇跡のように映る。その、もこもことした葉の根元から周辺区域を、うつくしいモザイク模様の石畳が端正に囲む。
遠く、湖の対岸に白い街並みが見えた。
せり上がる砂の壁は稜線を描くように風景を空から切り取り、オアシスの存在感を際立たせている。
うるわしい、《砂海の真珠》とも呼ばれる都ジール。
この、奇跡のような佇まいに旅人は焦がれ、一様に心を打たれるのだろう。
(昨日のことも……今日のことも。悩んでたのが馬鹿らしくなっちゃうな。女王が何を言い出しても、それは、こっちを困らせたいだけ。そんな相手の意に添う必要、何処にもないもの)
もし、無理難題を吹っかけられたら。
かけられた分だけ、如何ようにも躱し、弾けばいい――!
瞳に力が宿る。
どきどきと、苦しいほどの鼓動。沸き上がり、胸を満たす緊張と紙一重の高揚感。
あ。これ、何かに似てるな……―――と。
「!!」
突如合わさる、感覚と記憶。
大きな、大きなあかるい舞台。
それは、並みいる聴衆の前で。みずからの歌を披露する直前まで抱えていた、あのときの空気にそっくりだった。
じわり、じわりと広がる歓び。指先まで駆け巡る熱。
(ひょっとして……?)
少女は逸る胸を押さえ、目を瞑り、少しだけ息を吸う。
聴くもののいない空に向けて。
――可憐な唇を、ひらいた。
* * *
午前七時半。
それぞれの客間の前の通路にて、四名は集合する。
普段なら、締まりがないなりに煌びやかな容貌のレガート第三皇子が、今朝はしんどそうだ。
二日酔い……? と訝しんだが、昨夜は大して飲んでいない。違うな、と秒で浮かんだ理由を棄却する。
いつもは高い位置で括っている不揃いな銀髪を、今日は肩と背に流している。すると、顔だけ見れば紛らわしいほどゼノサーラとよく似ていた。
ただし表情は緩い。妹姫はもっと凛々しく、キリッとしている。
くすっと笑んだエウルナルアに、シュナーゼンは早速近づいた。やや遅れてレインもあとから続く。
「ううぅ~……おはよ。エルゥ、サーラ」
「? おはようございますシュナ様。すごく眠そうですけど……お休みになれませんでした?」
「そう、夢見が悪くて。深夜にレインは起こしに来るし。どうせ忍んで来てくれるなら、君が良かった」
「私は熟睡でしたから」
言外にそれは無理、とあっさり表明し、令嬢はちらりと青い瞳を従者の少年へと向けた。
意図を正確に汲みとった少年は、すかさず事情説明をこなす。
「隠すことでもありません。昨夜、女王陛下が僕の部屋に来られまして」
「「えっ!」」
柔らかな高音と、張りのある中低音が同じ音符で綺麗にかさなる。
エウルナリアとゼノサーラは固まった。凍てつく視線の先はもちろんレインだ。
レインは珍しく、ひどく不機嫌な顔になった。
「――未遂ですよ。指一本……は、触れさせてしまいましたが。あとは一切。誓って、何もされていません」
「釈明の……方向性がさすがよね、あんたって。びっくりなのは陛下にだけど」
「同感です」
一行は、摘みたての花を浮かべた水路や室内池の脇を通り、赤やマゼンタ色のブーゲンビリアが柱に絡まる渡り廊下をそぞろ歩く。
今朝がた、朝食を報せに来てくれた女官から案内を申し出られたものの、夕食と同じ場所と聞いて、丁重に断った。
ゆえに今は四名だけ。朝陽を浴び、抑えた声で歓談しつつ、のんびりと進む。
旅が始まって以来、騎士達――本当の大人と呼べる面々と、ここまで別行動なのは初めてだった。
だからだろうか。
現在、自分達の結束は妙に固いと感じる。双子のどつき合いも、レインの塩対応も今朝はとうとう見られなかった。
(仲がいいのは良いこと……なんだけどね?)
―――触れたいな、と思うと同時に。
前方をゆく双子の後ろ、隣に並ぶかれの左手をとった。
何となく、繋がりたくて。
「……」
瞬間、足運びの鈍った従者の顔をひょこっと覗き込む。
灰色の瞳は伏せぎみで、栗色の睫毛がきれい。エウルナリアの好きな角度だ。
少し頬が赤いのは、気のせいではなさそう。
「エルゥ様」
「ん?」
「手…………いえ、何も。遅れてしまいますね。行きましょうか」
「うん!」
繋がれた右手。
明らかにエスコートではない、互いの存在を確かめ合うような指の触れ方。
―――それが、ほのかに温かく、嬉しく。
決戦に挑む前の少女の心は、つよく満たされた。




