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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十七歳篇 砂漠の都

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85 撃退と不安の芽

 ふいに。

 ――きしり、と軋む音と傾ぐ身体を感じた。眠りが浅い方ではないが、なにぶん今日はひどい目にあった。思いの外ぱちり、と目覚める。


「あら。もう起きたの? 面白くない」


「奇遇ですね。僕も面白くありません」


 身体を起こしたいところなのだが、随分と上手に忍び込まれてしまった。辛うじて馬乗り、というわけではないがかなり際どい近さだ。不可抗力であっても口づけは避けたい。

 ごく薄手の夜着は――あまり、着用の意味がないように思える。

 『見えてるんですけど』と言うべきか、レインは少しだけ迷った。


 (やめとこう。無駄な気がする)


 窓からの月明かり。中庭で夜通し焚かれるのだろう篝火の灯り。それらの仄かな光源が、のし掛かるようにレインに覆い被さろうとしていた女王の白い衣を浮かび上がらせた。


 暗澹(あんたん)たる、とはこういう気持ちを言うのかもしれない。まさか、女王みずから夜這いをかけるとは――と、深々と息を吐く。


「ね、お前。私の後宮に入らない?」


「いやです」


「つれないのね。やっぱり寝込みを襲うべきだったわ。なまじ綺麗な顔立ちだから、見とれちゃって……迂闊だったわ」


「申し上げたいことは色々ありますが、この際この顔には――……まぁ、感謝しておきましょう。とりあえず退()いてください」


「いやよ」


 思わず、むっ……と黙り込んだ少年に、女王が笑みほころぶ。夜闇に咲く大輪の花のように。


 (とんだ徒花(あだばな)だな)


 内心で毒づくが伝わるはずもなく、しょうがない――と、レインは一瞬で覚悟を決めた。

 キッ、とまなざしに力を込め、一段低めた声をしずかに。だが叩きつけるように突き付ける。


「お戯れはそこまでです陛下。僕は、貴女の気紛れに乗っかるほど暇でも移り気でもありません。

 昼間は貴女の面子(メンツ)を立てましたが、こと、このような実力行使をなさるなら話は別だ。僕の身も心も、指先に至るまですべて、あの方のものですから」


「!! まぁ……!」


「?」


 解せない。

 この上なく真摯に訴えたはずなのに、ほんのりと赤面された。果ては「どうしましょう。すごく、楽しくなってきたわ」などと物騒なことを呟いている。


 ――まずい。嫌な予感がする。


 身構えるレインを弄ぶように、光る爪の指先がかれの顎を捕らえる。指先一本で、もたげられて。


「いいわね。とても素敵。相思相愛の主従で婚約者。しかも絵になる取り合わせなんて、最高の一言(ひとこと)よ」


「……あの?」


「大丈夫。襲いやしないわ。今はね」


「限定されずとも結構ですよ。未来永劫、完全に御免被(ごめんこうむ)ります」


 辛辣な拒否の言葉も、どうもこの女性には効き目が薄い。くすくすくす……と上機嫌なジールに、レインはますますもって途方に暮れた。


 さら、と衣擦れの音を立てて唐突に寝台から重みが離れる。ほっ……と内心吐息し、しかしレインは訝しげに女王を見つめた。何を、企んでいるのか。


 クスッと、再度微笑み、ジールが気安げにレインの髪に触れようとする。

 レインは素早く半身を捻り、その手を避けた。その(さま)に少しだけ残念そうな顔をする女王。

 ―――が、やがて「まぁいいわ」と溢し、身を翻す。サンダルがひたひた、とつめたい床を移動する音。それが客室の入り口へと遠ざかる。


 (……)


 胸に、暗雲が垂れ込めている。しのいだはずなのに、何かの種を誤って投じてしまったような。


 予感に(たが)わず、ぴたりと足音は止まった。通路に出る少し手前だ。

 目線だけが重なるほどの傾斜。ごくわずかに振り返る。


「――楽しみに、朝を待つといいわ。欲しいものは、この手に落ちてくるよう仕向けなくては、ね? ふふ、お休みなさい。ピアニストさん」


「!!」



 フワ……ッと出入り口の(とばり)を靡かせ、女王は退出した。

 残されたレインはもはや、吹き飛んだ眠気が戻ることはないとわかっていた。


 (どうしよう……やばいのに、目をつけられた)


 ちらり、と枕元の懐中時計を見遣るとまだ午後十一時過ぎ。

 ――良心的な時間だな、と言い聞かせ、自身も寝台を滑り降りる。

 寝台横の椅子に掛けてあった上着をとると、肩から簡単に羽織った。室内用の革のサンダルを申し訳程度に引っかける。


 ペタ、ペタと続きの間の――まずは、シュナーゼン皇子の元を目指した。

 眠る主を起こすわけにはいかないが、作戦会議は必要だ。



 なぜかはわからないが、ひどい悪夢に苛まれていたらしいシュナーゼンから妙に歓迎されたのは、そのもう少しあとのこと。


 次代のレガートを担う少年らは、東の空が明るくなるまでぼそぼそと、必要なことから不要なことまで、様々な議題をさばき続けた。


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