81 レガートからの滞在者
少し、時を遡る。
場所はジールの大通り。上等の旅籠が軒を連ねる一角は道を清められ、細かなモザイク模様に組まれた石畳はいかにも異国を感じさせた。
時刻は早朝。
陽はまだ昇りきらない。ほぼ、真横から射るような光に辺りは白く染められている。
瑞々しい涼気を含む風に、街路の椰子の葉がそよと揺れた。大オアシスゆえんの光景だ。
が、掃き清められていても靴裏にはジャッと砂の音が鳴る。
こればかりは、どうしようもないのかもしれない。
ひとが住むからこそのオアシスと言えた。無人なら、あっという間に砂に飲み込まれるのだろう。
聖教会の面々とともに、レガートからの一行は街の中央を目指した。徒歩だ。
往路で馬車は見られない。ここでの移動や運搬は、専ら駱駝やロバが担うらしい。
サングリードのキャラバンは一行とは別の、門にほど近い隊商向け宿舎に泊まっていた。
砂漠の都に聖教会の仮庁舎はない。それが、少し意外に思えた。
公営市の立つ区画へと移動のさなか。道々には観光客向けらしい露店のたぐいがちらほら立っていた。扱う品は珍しい布、色鮮やかな鳥、美味しそうな果汁のジュース、または果物そのもの。非公営ですらこれだ。彩り鮮やかで豊か。賑わっている。
(ドラク峡谷の盗賊は……こういう物資をこそ狙ってると思うんだけど。どうして無策なのかしら……)
解せないな、と。
少女は反射で難しい表情を浮かべたが、すぐにふるふると頭を振った。
――いけない、いけない。今、考えるべきは別のこと。
エウルナリアは紫紺色の、身の丈を踝まで覆うベールを目深に被り、金糸の刺繍が施された顔布で目から下を隠す。
ベールがずれぬよう留められた飾環も細いシンプルな金の環。額には小粒の藍玉が揺れていた。
わずかに覗く絹糸の黒髪。長く影を落とす睫毛に縁どられた、西方の湖そのものの青い瞳。それが優雅に瞬きつつ、きらきらと辺りに視線を投げかけている。
―――誠に残念ながら、と言うべきか。
隠していることは、かえって生来のうつくしさを引き立てているようだった。
その美姫が、たた……っと編み上げサンダルに包まれた白い足を早める。
衣装はゆったりとした作りの白絹で、足さばきの良い袴付きの長衣。女王への謁見を望むにふさわしい、歩くたびにさやさやと衣擦れの音をたてる、上質なもの。
「あの。セオミナ様は、公営市に直行せずともよろしいのですか? 謁見の申請に施政宮まで一緒に来ていただくのは、大変心強いのですけど」
申し訳なさそうに響く可憐な声。
女司祭セオミナは、小柄な令嬢に目を留めると、にこっと微笑んだ。歩調を緩め、話しやすいよう隣へと並ぶ。
こちらは旅装そのままの、白い外套を引っかけた軽装だ。銀糸の飾り帯がやわらかく朝陽を弾き、サングリードの星十字を仄かに浮かび上がらせた。
「構わないよ。テオは優秀だし、配下の奴等は強面のわりに人当たりがいい。それに慣れてる。私が不在でも、いつも通り『いっぱい稼ぐ』よ」
「……そう、ですか?」
こてん、と首を傾げはしたものの、少女はそれ以上追及しなかった。
彼女の述べる『稼ぐ』が、見たままの医療行為や薬市でのやり取りに留まらず、市井における諜報活動も大いに含むのだろう――と、今ならわかるので。
「それに」
「?」
「貴女は面識があるんじゃないかな? 今、女王の宮――水流苑にはキーラ家の姫君が画家として滞在してる。
私が橋渡しするのはそこまでだよ。宮のなかでもそれなりに働きたいし。こういう時はね、単身のほうが動きやすいの」
ぽん、と商売道具一式が詰め込まれた薬鞄を叩く姿はいっそ頼もしい。
なるほど、そういうものか……と、頷くと同時にわくわくと胸を踊らせた。
知っている。
今、ジールに滞在するキーラ家の女性となると……
エウルナリアはにこり、と笑みを深めた。
* * *
「殿下がた……! お久しぶりです。すっかり立派になられて」
「貴女も。ベリルどの。健勝そうで何より……って。ねぇ、堅苦しいからやめない? こういうの」
模範的な回答は二言目まで。三言目からは、いつも通りぐだぐだとなったシュナーゼンは、へらっと忽ち態度を軟化させた。
クスクスクス、と長身の美女が笑う。
少し日に灼けた肌は滑らかで、一本の長い三つ編みを垂らした巻き毛は焦げ茶色。凛々しい眉の下、理知的にきらめく緑柱石の瞳。口の端を片側だけ上げた特徴のある笑みは、誰かさんを彷彿とさせた。
彼女の名はベリル・キーラ。
キーラ家三姉妹の長女で、名うての風景画家だ。
二十七歳独身。生涯、結婚に興味はないと豪語する女性でもある。
(だからこそ、次期当主の座をみずから辞退されたと聞くけど……ロゼルは『実力だ』と言って憚らないし、ご本人も否定なさらないのよね。不思議なご姉妹だわ。ほんと……)
少女の心の独白は知らぬげに、ベリルは軽く臣下の礼をとり、次いで、ぱぁっ……! と表情を輝かせた。
視線を向けられたエウルナリアも満面の笑みとなる。ふわり、と長衣の裾をつまみ、流れるように淑女の礼をとった。
「ご無沙汰しています。ベリル様」
「エルゥ。本当に久しぶり……! お互い務めの最中とはいえ会えて嬉しいよ。おいで」
諸手を広げて呼ばれたので歩を進めると、二歩の距離からすばやく詰められ、思いきり抱擁された。
彼女の背の高さは、これまた久しく会っていないグランを彷彿とさせる。――かれも、ベリル同様抱きつき癖があるので。
「あぁ……女の子らしくて柔らかくていい匂い。いいね最高! レガートで側にいられるロゼが羨ましいな。いや――……真に羨むべきは未来の夫君、かな?」
ちらり、とエウルナリアの背後に控えていた少年――レインを流し見る。
抱きすくめられた少女からは見えないが、明るい緑の双眸には、ちょっとばかり剣呑な光が宿っていた。
((うわぉ))
銀の双子が、そっくり微妙な顔で両者を眺めみる。
が、レインは小揺るぎもせず首を傾げ、清々しいまでに完璧な微笑を湛えて見せた。
「否定はしません、ベリル様。……どうも。ご無沙汰しております」
ごく自然にとられる、お手本のような従者の礼。
ベリルは目をすがめ、フッと鼻でせせら嘲笑った。
「相変わらずいけ好かないな。ね、本当にあれでいいの、エルゥ? あいつ、絶対中身と外身が全然違うよ?」
お気に入りの愛描を覗き込むような仕草で、ベリルが腕のなかの少女を窺う。そっと、顔布を取り外しさえした。
黒髪の姫君は口許に指を当て、可笑しそうに笑う。
「ふふっ、知ってます。それに……その忠告、懐かしいな。ご存じありません? 七年前、ロゼルも同じことを言ってましたよ」




