80 女王と、その夫※
「謁見……妾に?」
「はっ」
しどけなくうつ伏せで長椅子に寝そべり、女は気だるげに問うた。
傍らの侍女が、その背を入念に揉みほぐしている。なめらかな小麦色の肌は香油を塗り込まれ、いまや蜂蜜色の光沢を湛えていた。
大理石をふんだんに用いた白亜の宮殿。その、女王の居住空間ではあらゆる場所に水の装飾が用いられている。
室内に引かれた水路に、幾重にもかさなり段を経て落ちる優雅な細い滝。宮に隣接して流れるレーヌ湖から引いた水ではない。
古く、建国の王がオアシスの女神を妻にめとったとき、大地から祝いに贈られたという“奇跡の泉”。その湧水を惜しげもなく用いている。
清らかな水の匂いと、サラサラと流れる音。
ゆえに、女王の宮は砂漠の藍玉とも“水流苑”とも呼ばれた。
ふ、と形のよい、薄い唇から吐息が漏れる。
――笑い声なのだと気づくまで、数秒を要した。彼女の夫の一人であり、筆頭執政官である青年は磨き上げられた床に額づいた。そういう、作法なので。
「顔を上げて。リザイ」
「は」
やわやわと頭をあげ、主君を仰ぎ見る。招かれた閨以外で、彼女を妻と呼ぶことはできない。これもまたこの国の、長く続いた決まりごとの一つだった。
自分を熱心に見つめる琥珀色の目と、実直そうな面持ちの精悍な頬に、女――ジールと呼ばれる女王はほっそりとした指を当てた。長く伸ばした爪で傷つけぬよう、そぅっと。
「良いわよ。可愛いあなたの頼みだもの。会ってあげる。……どこの、誰だったかしら?」
ごく、とリザイの喉が上下する。
ことは、ちょっとした外交問題に直結しかねない案件を抱えていた。
「陛下お気に入りのキーラ姉妹の故国、レガートからの客人です。なんでも、内々に相談の儀があるとか。
申請を受けたのは第三皇子シュナーゼン殿下、第一皇女ゼノサーラ殿下。それにバード楽士伯家のご令嬢と従者でもある皇国楽士の少年。以上の四名ですが。……陛下?」
「なに?」
ご機嫌な様子で、人差し指で執政官の顎を持ち上げるなどして戯れていた女王は、寝そべりながらゆるく首を傾げた。
睫毛の先に飾られた金粉が艶かしく目許を彩っている。それについ、視線を奪われつつ――辛うじて、リザイは最低限の忠言を口に乗せた。
「我々の元に、ウィズルから接触があったことは。……今もなお進行中の議事に関しては、決して口外なさらぬよう。いいですね?」
「……」
しばしの沈黙。
女王はこれに答えず、ちょいちょい、と指でかれを招いた。
はて、充分近いはずだが……と怪訝顔で。それでも指示どおりに距離を詰めた青年に。
ビシィッ!
「痛ぅッ!!??」
堪らず、リザイは額を押さえて呻いた。
至近距離から、ひとの喉も掻き切れそうな爪で強か眉間を打たれたのだ。
――俗に言うデコピンだ。信じられない。
ふぅ、と汚れでも付いたかのように、女王はみずからの爪を吹いた。「あぁ、やだやだ」と独り言ちている。
「あなた、何年わたしの側仕えをしてるの。あまつさえ、国政の大半をあなたとあなたの父親に任せてあげているのに」
「……御意」
リザイは気合いで痛みをはね除けた。まだ、瞑った眼裡にチカチカと星が散っている。
ふと、黒々としたつよい眼差しが外された。
「お前。もういいわよ」と傍らに侍女を下がらせ、衣装を直すと自身はすっくと立ち上がる。
そのまま、思いきり斜め下方向の青年を目線だけで見下ろした。
「“えぇ、わかったわ”――なんて、頷く女じゃないとまだわからない? お馬鹿さん。口外するな、ですって? そんなの……うふふ、その時に決めるに決まってるじゃない。
双子の皇子と皇女……レガートの秘蔵っ子ね。国際舞台じゃ出てくるの初めてじゃない。それに? つまりは楽士団の新人歌姫とピアニスト、か。面白そう」
「!? ……陛下ッ!」
「だれが口を挟んで良いと言った? 愚か者」
「…………」
ぴしゃり、と言い放つ。
再び悲痛な顔で黙り込んだ夫の一人に、ジールはほほえんだ。あでやかに、優しげに。
「会うわ。呼びなさいここに。――あ、お前? お茶とお菓子の支度をして。可愛らしいお客様がたに、喜んでいただけるよう」
「畏まりました」
「あの……」
もの慣れた侍女はすみやかに一礼し、退室する。
こと、主のあしらいにかけては彼女のほうが数段上かもしれない―――埒もなくそんなことを考えつつ瞑目し、リザイは重々しくため息を吐いた。
気配ががらりと変わる。
萎縮した寵臣のそれから、第一夫である威信を放つ、重臣のそれへと。
「……わかった。わかりましたよ我が君。ですが、覚えておいでなさい。私にも仕返しの手段はありますからね?」
スッ……と許しもないのに立ち上がり、じとり、と琥珀の目で主を流し見る。
彼女の頭の位置は肩ほどだ。滑らかな肌は見慣れているし、馴染むほど触れている。
女王ジールはそんな青年を咎めることなく、口許に指をあてがい、「あら」と楽しげに囁いた。
「それはそれは。しばらくは他の夫を呼ばないと」
にこにこ、にこにこと嬉しそうな、なかなか妻とは呼ばせてくれない女性に、リザイはひどい渋面を以てして答えとなした。




