8 戻る日常、しずかな変化(3)
(シュナ皇子……鋭すぎる…)
練習室を出たあと、エウルナリアは“図書の塔”と呼ばれる西塔へと一直線に向かった。
長い、長い音楽棟の通路をまっすぐに歩き、端にある、中庭へ出るための扉に手を掛け、開けようとする。
―――と、勝手に扉がひらいた。
「!」
思わず落としそうになった楽譜を、ぎゅっと抱え込む。
中庭の陽光と、輝く木々の緑を背に。いささか息を切らした様子の栗色の髪の少年が、そこにいた。かれ自身も驚いたのか、灰色の瞳を丸くしている。
「エルゥ様……! やっと、追い付いた!! ――あ、図書の塔ですか?お供します」
さらり、と不満を溢したあと。
何食わぬ顔で楽譜を奪い、怯える主を優しくエスコートするレインは、鉄壁の笑顔だ。ただし目は笑っていない。むしろ――…
「……おこってる?」
目を合わせずに問う主に、栗色の髪の従者はぴく、と片眉をあげた。
「怒られるようなことを、なさったんですか?」
「私は、してない……あぁ、でもどうなんだろう…したか、と問われれば否定しきれない……かも」
中庭を斜めに横切り、学院の入り口にあたる双子塔を繋ぐ石造りの通路へと上がる。右に行けば図書の塔。左手には現在、一、二学年が一般共通科目を受講中の東塔が聳え立っている。
主従は揃って、右に向かった。
* * *
「先ほどの、続きですが」
図書の塔の中空回廊を渡るため、さほど横幅の広くない螺旋階段を登りながら、レインはエウルナリアに会話の続きを促した。
まだ一時間目の講義の時間。人は疎らで周囲には誰もいない。
「……つづけるんですか」
敬語で返しつつも相変わらず、令嬢は従者の顔を見ない。あるいは自分を見せたくない。コツ、とちいさな足音とともに、目当ての本棚が林立する楽譜フロアに到達した。
「続けますよ。怒って欲しそうですからね」
「――…っ」
レインは、淡々と手に持っていた楽譜のラベルを確認しながら、元あった場所へと戻して行く。
ふと残りの一冊を、耳を赤くさせた少女に渡した。
「すみません。これはエルゥ様のすぐ後ろですね。戻していただけますか?」
「…あ、うん」
ややぎこちなく受け取り、従者に背を向けて本棚を見上げた令嬢は……固まり、息を呑んだ。
音をさせずに歩み寄ったレインが、真後ろで立ち止まっている。
どこにも触れていないが、「ここですよ」と伸ばされた長い指が、エウルナリアの目線より少し上をそっと示した。近すぎる距離から落ちた涼しい声に心臓が跳ねる。
動揺を悟られないように、少女は唇を軽く噛んだあと、最後の一冊を戻した。
「……」
動けない。
すぐ後ろで、微妙な近さでレインが立っているので振り向けない。左右の退路を絶たれているわけでもないのに、体が動かない。
「あの」
「逃げないんですか?」
「……どうして、レインから逃げなくちゃいけないの」
「逃げたじゃないですか。邸から。はっきり言わせてもらうなら、僕からですが」
つきん、と胸が痛んだ。
嘘偽りなくその通りなので、言い訳のしようがない。
出来るだけレインと顔を合わせたくなかった。邸でそれは無理なので、我が儘を言って寮に入った。
こうして一緒に居てもつらくて、やっぱり顔を見られない。見せたくない。
レインに背を向けたまま、エウルナリアは項垂れた。
「…ごめん」
「謝らなくてもいいです」
「でも、怒ってるでしょう?」
「怒ってますよ。当たり前でしょう。
……さ、決めてください。逃げるか、僕から怒られるかの二択です」
―――…かれの、こういう従者らしくないところを好きになったんだっけ。きっかけはピアノだったけど。
ふぅ、と吐息を漏らして観念したエウルナリアは、ゆっくりと振り返り、従者の少年を見上げた。灰色の目は何だか傷ついて、痛いのを堪えているように見える。
視界が、涙で滲んだ。
「おこって……くれる?」
「…………お望みとあらば」
困ったようにひそめられた眉。潤んだ青い瞳をまっすぐに従者へと向ける主の少女は、物言いたげな珊瑚色の唇を薄くひらいたまま。
―――その眼差しが、どれほどの破壊力を携えているのかを。
痛い目に会ったはずの彼女は、未だ気づけずにいる。




