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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十六歳篇 成人後の日々

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8 戻る日常、しずかな変化(3)

 (シュナ皇子……鋭すぎる…)


 練習室を出たあと、エウルナリアは“図書の塔”と呼ばれる西塔へと一直線に向かった。

 長い、長い音楽棟の通路をまっすぐに歩き、端にある、中庭へ出るための扉に手を掛け、開けようとする。

 ―――と、勝手に扉がひらいた。


「!」


 思わず落としそうになった楽譜を、ぎゅっと抱え込む。


 中庭の陽光と、輝く木々の緑を背に。いささか息を切らした様子の栗色の髪の少年が、そこにいた。かれ自身も驚いたのか、灰色の瞳を丸くしている。


「エルゥ様……! やっと、追い付いた!! ――あ、図書の塔ですか?お供します」


 さらり、と不満を溢したあと。

 何食わぬ顔で楽譜を奪い、怯える主を優しくエスコートするレインは、鉄壁の笑顔だ。ただし目は笑っていない。むしろ――…


「……おこってる?」


 目を合わせずに問う主に、栗色の髪の従者はぴく、と片眉をあげた。


「怒られるようなことを、なさったんですか?」


「私は、してない……あぁ、でもどうなんだろう…したか、と問われれば否定しきれない……かも」


 中庭を斜めに横切り、学院の入り口にあたる双子塔を繋ぐ石造りの通路へと上がる。右に行けば図書の塔。左手には現在、一、二学年が一般共通科目を受講中の東塔が(そび)え立っている。


 主従は揃って、右に向かった。




   *   *   *




「先ほどの、続きですが」


 図書の塔の中空回廊を渡るため、さほど横幅の広くない螺旋階段を登りながら、レインはエウルナリアに会話の続きを促した。

 まだ一時間目の講義の時間。人は(まぱ)らで周囲には誰もいない。


「……つづけるんですか」


 敬語で返しつつも相変わらず、令嬢は従者の顔を見ない。あるいは自分を見せたくない。コツ、とちいさな足音とともに、目当ての本棚が林立する楽譜フロアに到達した。


「続けますよ。怒って欲しそうですからね」


「――…っ」


 レインは、淡々と手に持っていた楽譜のラベルを確認しながら、元あった場所へと戻して行く。


 ふと残りの一冊を、耳を赤くさせた少女に渡した。


「すみません。これはエルゥ様のすぐ後ろですね。戻していただけますか?」


「…あ、うん」


 ややぎこちなく受け取り、従者に背を向けて本棚を見上げた令嬢は……固まり、息を呑んだ。


 音をさせずに歩み寄ったレインが、真後ろで立ち止まっている。

 どこにも触れていないが、「ここですよ」と伸ばされた長い指が、エウルナリアの目線より少し上をそっと示した。近すぎる距離から落ちた涼しい声に心臓が跳ねる。

 動揺を悟られないように、少女は唇を軽く噛んだあと、最後の一冊を戻した。


「……」


 動けない。

 すぐ後ろで、微妙な近さでレインが立っているので振り向けない。左右の退路を絶たれているわけでもないのに、体が動かない。


「あの」


「逃げないんですか?」


「……どうして、レインから逃げなくちゃいけないの」


「逃げたじゃないですか。邸から。はっきり言わせてもらうなら、僕からですが」


 つきん、と胸が痛んだ。

 嘘偽りなくその通りなので、言い訳のしようがない。


 出来るだけレインと顔を合わせたくなかった。邸でそれは無理なので、我が儘を言って寮に入った。

 こうして一緒に居てもつらくて、やっぱり顔を見られない。見せたくない。

 レインに背を向けたまま、エウルナリアは項垂れた。


「…ごめん」


「謝らなくてもいいです」


「でも、怒ってるでしょう?」


「怒ってますよ。当たり前でしょう。

 ……さ、決めてください。逃げるか、僕から怒られるかの二択です」


 ―――…かれの、こういう従者らしくないところを好きになったんだっけ。きっかけはピアノだったけど。


 ふぅ、と吐息を漏らして観念したエウルナリアは、ゆっくりと振り返り、従者の少年を見上げた。灰色の目は何だか傷ついて、痛いのを堪えているように見える。

 視界が、涙で滲んだ。


「おこって……くれる?」


「…………お望みとあらば」


 困ったようにひそめられた眉。潤んだ青い瞳をまっすぐに従者へと向ける主の少女は、物言いたげな珊瑚色の唇を薄くひらいたまま。



 ―――その眼差しが、どれほどの破壊力を(たずさ)えているのかを。

 痛い目に会ったはずの彼女は、(いま)だ気づけずにいる。


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