77 必要なこと
最初の一音。
心にえがくA の音程。それだけを、ただ伸ばせばいい。
エウルナリアはすぅ……と目を瞑り、息を吸い込んだ。ぴん、と姿勢を正し―――祈るように鳩尾の辺りに当てた左の手を、右手で包む。
口をひらく。
「…………、ぁ……っ!」
微かに、かろうじて漏れた声。
押し出されたそれは吐息ですらなかった。傍らのゼノサーラは思案げに首を傾けて腕を組み、色素の薄い眉をひそめている。
「――なるほど。歌ってないと思ったら……ほんとに歌えなくなってたのね可哀想に。……って、いうか」
「?」
銀の皇女は、痛ましい表情を一転、紅の眦をキッ! と吊り上げた。
反射でエウルナリアは半身を引く。やばい、何かが逆鱗に触れた。
つか、つかつかつかと歩み寄った皇女は――やはりと言うべきか。素早く黒髪の少女の両のこめかみに拳を当てると、ぐりぐりと容赦なく圧し挟んだ。
「! いたぁっ! 痛い、サーラ! ごめん、やめてぇ……っ!!」
「この、バカ!! やめないわよ。だってあんた、わかってないじゃないの。何でわたしが、こんなに怒ってるのか!」
ほんの少し、力が緩んだ。その隙に涙を浮かべた青い、真夏の湖のような瞳が皇女を映す。
この、たおやかな容姿のどこにそんな怪力が……? と、エウルナリアはいつも不思議になる。とりあえず彼女の両手首を押しやるべく、それとなく握りつつ首を捻った。
「えぇと……言わなかった、から?」
「そうよ!」
「きゃあっ……あ、だめ、痛い痛い、やめ……てぇっ!」
おかしい。正答だったのにまた責められた。もはや、どうすれば良いのか見当もつかず途方に暮れ始めたとき。
カチャッ……
バタン!
「エルゥ! 大丈夫?!」
「! 失礼します、サーラ様っ」
両者、申し訳程度の断りとほぼ同時の入室だった。
シュナーゼンとレインは一目で状況を悟ったのか、ちら、と互いに目線を交わし、息ぴったりに部屋へと足を踏み入れた。
宿の壁は、さほどの厚みがないようだ。
或いは、少女の声の通りが良すぎたのか。
――――これで、なぜ歌声だけが封じられているのか。
エウルナリアはこみかみにも痛みを伴う枷を受けたまま、二重三重の疑問を強いられた。
慌てたシュナーゼンは妹姫の手首を掴み、間に割って果敢に立つ。
「こら、サーラ。手が早いにもほどがあるよ。やめなさいって」
「あぁぁもう! 邪魔すんじゃないわよシュナ! この子、一度ガツンと言わなきゃわかんないんだわ!!」
「まぁまぁまぁ、どうどう。ね?」
「誰が馬よ!」
怒り心頭らしい皇女殿下は双子の兄君に任せ、レインは後ろからエウルナリアの肩をやさしく引いた。
その場――皇女の手のおよぶ範囲――から、主を避難させるため。
そっと右手をとり、左腕で彼女の細い腰を抱き寄せる。
「大丈夫ですか、エルゥ様」
「レイン……ありがと、大丈夫。……いいよ。私のせいだもの」
「……」
この主従、本当に距離感がおかしい――
が、シュナーゼンは突っ込むのを必死に堪えた。らしくないなと内心呆れつつ。
そのとき。
ぱしん! と、苛立ったゼノサーラが兄の手を叩き落とした。「痛ぇ??! 手! 商売道具ぅ!」と正直に吠えるシュナーゼン。
皇女は兄を構うことなく、従者に守られた親友へと視線を定める。ただし、もう手は出さない。
「それよ、それ! あんたのそういうところが嫌いっ!」
「ごめ」
「わかってないのに謝らないっ!」
「は、はいっ!」
つられて、肩を跳ね上げつつも答えるエウルナリア。
レインもシュナーゼンも目を合わせ、苦笑した。手さえ出さないなら止める道理はない。なぜなら――……
……こほん、と皇女は一つ、ちいさく咳払いをした。目許が少し赤い。涙ぐんでいる。
「あんたが。あんただけが悪いわけないでしょ。それを全部、ふつうに抱えちゃうのやめなさい。これが一点」
「は……はい……」
「まだあるわよ。何か不都合があるなら、すぐに言いなさい。庇ってやれないでしょ」
「あ……」
「それから。大事なこと、隠すんじゃないわよ。なんで、誕生日教えてくれないのよ。もう、過ぎちゃってるじゃない!」
(……んん?)
これには、流石に怒られ慣れている少女も、怪訝な顔になった。明らかに、先の二つと質がちがう。
あと、私の誕生日を知っているのは……
「レイン?」
ぱっと肩越しに振り向き、見上げると、灰色の目が悪びれず彼女を迎えた。
「はい。僕が言いました」




