72 サングリードの薬草市
白々と光の満ちる蒼天に、小さな影が過る。ぴん、と翼を伸ばした一羽の鳥が旋回し、樹上に停まることなく悠々と西の空をめざして翔け消えた。
エウルナリアは立ち止まり、青く遠ざかるその一点に目を凝らしている。
(……?)
斜めに傾ぐ主の背。
不思議に思った従者の少年は、つい、みずからも同じほど首を傾けて問いかけた。
「エルゥさ……いえ、エルゥ。何か?」
* * *
時刻は午前七時。
ゼラン村の広場には、いくつもの市が立ち並び始めている。
サングリードのキャラバンがひらく、不定期で行われる薬草市。近隣の村々からも人が集まるそれは、一種、祭のようだった。広場は活気に溢れている。
がやがやと喧騒著しいなか、エウルナリアは頭を振った。
昨夜ほどいてしまった髪は、今朝はいつもの垂らし髪。
四方に柱を打ちつけて布を張った簡易天幕のおかげで、凶暴な陽射しからは守られている。ゆえに、外套やフードの類いは身に付けていない。
風を受けて揺れる、柔らかな黒髪。
この辺りでは珍しい白磁の肌。
何より印象的な、湖の青の瞳。
露となった少女の精霊じみた美貌は、何をどうしても人目を引いた。ちらちらと、意図的な視線を投げかけてゆく男も多い。純粋に、ただ見とれるだけの者はもっと多い。
―――レインはそれらを諦めの心境で、まるっと無視している。
が、恋い焦がれる少女の微細な変化は、一片たりとも見逃すつもりはなった。
エウルナリアは、つと天幕の入り口から陽向に晒していた半身を引っ込めると、忙しなく瞬きつつレインの側まで戻り来る。
暗順応に時間がかかるのだろう。指を添えて目を瞑り、それでも律儀に答えた。
「何も。ただ、鷹みたいな鳥が西に飛んでいったから」
「あぁ。鷹便かと思われたんですね」
「うん」
端的に会話を切り上げ、少女は従者の少年を手伝うべく、すとん、と傍らにしゃがみ込んだ。
顔の前に一房、黒髪が垂れる。
それをそぅっ……と細い指にとり、伏し目がちに耳へと掛けた。
―――無意識の所作。
それにすら淡く色が溶け滲むことに、少女は何歳になっても気づけない。
万感の思いで彼女を見つめていたレインは――深く、吐息した。諸々の心情を落ち着かせるために落とされた、どうしようもないため息だった。
「なるほど、確かにウィズルの鷹かもしれませんね。どうします? 次からは騎士の誰かに頼んで射落としてもらいますか」
「ううん。それは……どうかな」
小首を傾げ、言葉尻を濁すエウルナリア。さすがにそれは行き過ぎな気がした。
普通の鳥かもしれないのだ。よしんば、ウィズルの鷹だったとして……――
濁された部分はあっさりと通じたのだろう。レインは視線を手元に落としたまま、薬草を小分けにしつつ淡々と所感を述べた。
「えぇ。僕も、そこまでする必要はないと思います。お互い水面下の進行ですからね。下手に警戒を抱かせる意味は全くありません。相手からは無能と思われたほうが、こちらはやりやすい」
「……それ、お父様からの受け売り?」
レインは顔をあげ、ふぅっと遠い目になった。頬にはほろ苦い笑みが浮かんでいる。
「えぇ」
(あらら……)
エウルナリアは、つられて苦笑した。
似た教育なら、幼いときにたっぷりと受けている。
あの父のことだ。さぞかし、容赦のない教授方法だったろう。
なら、本題に入ろうか――そう思ったとき。
天幕の外から、てきぱきと陣頭指揮を執る凛々しい声が近づいて来た。
「エルゥ。レイン。いる?」
突如、バサァッ! と捲られる背面の壁布。偶然、ほど近い場所にいたエウルナリアはびくぅっ! と、肩を跳ねさせた。
「はいっ。ここに……きゃっ!」
「あ、ごめん。近かったね」
即座に眉尻を下げ、謝るセオミナ。
申し訳なさそうな顔だが、きつめの猫のようなアーモンド型の瞳は楽しげだ。きらきらと黒曜石のように輝いている。
やや遅れて後ろから、青い飾り帯の青年――テオが現れ、やれやれと嘆息した。
どうやら悪戯だったらしい。つくづく、お茶目な女司祭だ。
「いえ……? あの、これは?」
ぽん、と手渡されたのは二本の飾り帯。色は茜を帯びた黄色。サングリードに入門して一年に満たない者が身に纏う徴の色だ。
セオミナはこともなく言ってのけた。
「レインと一緒にそれ付けといて。一応《サングリードの薬草市》だからね。交代の時間まではテオを置いてくよ。もし、お客さんから薬のことを訊かれたらそっちに回して。歩く薬学辞典なの」
ぱちん、と片目を瞑り、青年の肩に気安く手を乗せている。任された青年は、渋面一歩手前の複雑そうな表情をした。
「俺より上の、超一流治療師に言われたくないんですが」
「いいよ? さっさと私より上になりなよ。譲るよ司祭なんて」
「結構です」
「……」
「……」
二人とも笑顔なのだが……何だろう。ずいぶんと子どもじみた、大人なやり取りだなと眺める若年層の視線に気づいてか。
はた、と背の高い二人組は黙り込んだ。
「じゃ、よろしくね!」
一瞬の間のあと、軽快に歩み去る銀の飾り帯のセオミナ。
残されたテオ。
―――と、レインにエウルナリア。
三名は、見るともなく互いを見つめ合う。
年長者はにこり、と人好きのする笑顔を浮かべた。
「まぁ……そんなわけで。始めましょうか、お二方」
陣頭指揮は、テオに譲られた。




