63 おやすみ
「サーラ、何。話って」
少しだけ不機嫌な声。ゼノサーラは自分を男にしただけのような、整った容貌の兄をじっ……と眺める。無言だ。澄んだ紅の視線には、これといった感情の色はない。
兄ーーシュナーゼンは内心、たじろいだ。妹は何だかんだ言って感情が豊かな少女だ。言葉面はきついが、最終的にはいつも優しい。
その、少女が漸く口をひらいた。
「も、さ。諦めなよシュナ。エルゥの気持ちは変わらない。一緒に旅してさらに確信したわ。あの子、めちゃくちゃ頑固で……なのに懐に滑り込まれると滅法弱い。
一度、境界を越えさえすれば、あの子からは拒絶できないっていうか……友人として言わせてもらうなら、隙だらけで見てらんないの。
シュナ。わかってんのに、あの子の隙に甘い夢見てるでしょ」
「……言うねぇ」
「まだまだ、まだまだ言えるわよ? 大事な友だちと双子の兄だもの。手が掛かって、とっても楽しいわ」
すがめられた流し目、片方しか上げられていない口角。頬に漂う表情には明らかに傷ついた色がある。兄の渾身の皮肉を、妹は事も無げに受け流した。
「……」
がしがし、と、今は括らずに肩におろした銀髪が乱れるのも構わず、シュナーゼンは頭を掻いた。
部屋の主ーーレインは不在だが、きれいに整えられた寝台にどさっと腰を降ろす。自然、腕を組んだゼノサーラが兄を見下ろす形となった。
「わかってるよ。でもさ、……放っとけない。今のエルゥは張り詰めすぎだ。サーラは、ディレイ王の彼女への求婚とウィズルの侵攻懸念、どこまで把握してる?」
ぱち、と長い睫毛がしばたいた。
「どこまで、て?」
シュナーゼンは寝台に後ろ手をついて足を組み、首を傾げると、吐息とともに偽りない言葉を溢した。
「……僕は確かにあの子が好きだけど、レガートも大事だ。今は瀬戸際だよ、サーラ。すべてがエルゥに掛かってる」
「『すべて』って……大袈裟じゃない? エルゥとの接点がなかったとしても、ウィズルはいずれ、アルトナの西部辺りにちょっかい出したでしょ。レガートや他の国まで攻め上る必要はないから、あくまで撹乱かと……え、違うの?」
怪訝そうな妹に、兄は頭を振った。
「残念だけど。ウィズルの侵攻がレガートに及ぶ危機があるのは間違いなく、ディレイ王がエルゥを手に入れたいからだよ。
ーー逆に、エルゥを引き渡しさえすれば戦は起こらない。西の穀倉地帯アルトナが蹂躙されるのも防げる。……そういう、口約束らしい。前、来たとき言われたって」
「それって」
ゼノサーラの瞳に、目の前の兄を通り越した先ーー毎夜、うなされる親友の影が映し出された。閃くように。
「……だからなの? あの子……おかしいの。レインを向かわせたのは、だからよ。あいつなら、察して勝手に動くと思って」
「……『おかしい』……?」
今度は兄が怪訝顔。
妹は、こく、と頷いた。
「毎晩、寝ながら静かに泣くの。泣いてないときは、たまにうなされてる。おまけに」
「泣い……?!」
しれっともたらされた同室ならではの情報に、中途半端な鸚鵡返しで愕然とするシュナーゼン。
ゼノサーラは、区切らされた言葉を躊躇なく繋げた。
顔を上げ、彼女がいるだろう部屋に視線を投げかけながら。
「……おまけにあの子、旅に出てから一度も歌ってないわ。口ずさみもしない」
* * *
露台を照らすのは月明かり。部屋から零れるランプの灯火。
そっ……と腕をゆるめて覗き込んだ小さな顔は白く、深い湖を思わせる青眼はまだ濡れていたが驚きが勝ったのだろう。大きく見開かれている。
さら、と黒髪に指を梳きいれた。
「僕には、話せませんか……?」
「! 聞こえたの?」
「『助けて』、と……聞き違いじゃなければ。
貴女の本心が僕のいない所でしか溢せないのだとしたら、それは、僕が不甲斐ないからです」
「そんなことっ……!!」
「違わないでしょう?」
ぐっ、と堪えるかのような表情。泣きはしなかったが、喉元までせり上がる声をむりやり封じる表情だった。
「……ちがう。不甲斐ないのは……私よ。こんな事態を招いたのも。皆を危険に晒しているのも」
「……」
ぴた、と髪を撫でる手が止まった。真摯な灰色の瞳は、じっとエウルナリアを見つめている。揺らぎ。迷い。ささいな波も、決して見落とさぬよう。
エウルナリアは、泣かない。
泣かずに滔々と語った。
「私が、自分からウィズルに行けばいいと思ったわ。もしもの時は。なのにーーいやなの。……レインが、すきよ。ピアノだけじゃない。レインだから言えること、たくさんあるの。レインでなきゃだめなことも……たくさん。
だからごめん。これ以上は、甘えられ、な……っ……ッッ??!」
「っふ……ーーばかですね、エルゥは」
瞬時に唇を塞ぎ、つかの間、主の言葉や吐息もろもろを奪い取った従者はすぐに、ぺろりと自らのそれを舐めとった。
「~~!!」
令嬢は赤面している。さっきまでの蒼白な顔が、嘘のように。
(え。とうとう馬鹿呼ばわりされた……これ、主としてはどうなの。歌えない以前に次期当主として失格よね……???)
赤くなったり、青くなったり。バード家の次期当主は忙しい。
そんなエウルナリアに、レインはふわり、と微笑いかけた。ーー昔と同じ。困ったように。包み込むように。
「僕は、腕っぷしも強くありませんし、いざという時は盾になるくらいしか能がありませんが。……だからこそ、そうならないよう真剣に立ち回っているつもりです。
アルム様からも家令の父からも、さまざまなことを教わりました。立場上、エルゥ様と一緒に居られない間は」
話しながら、それとなく少女の手を引いて室内に戻る。キィ、と蝶番の音が響き、ぱたん、と露台への扉が閉められた。
「あ……道理で。今日もそんな感じがした……教えてくれる? 私にも」
抱き寄せられるまま、素直に従者の胸に頭を預ける少女。その黒髪に口許を埋めながら、眼を瞑ったレインは、噛みしめるように答えた。
「えぇ。道中、追々……でも、エルゥ様も教えてくださいね。僕に」
「……こういう、こと?」
頷く代わりに、ふふっと笑い声が漏れる。耳の辺りにかかるそれは、少しくすぐったい。ーーー抱きすくめられた背が、あたたかい。……溶けてしまいそうなほどに。
「はい。一緒に考えましょう。僕も……貴女でなければいやなんです。今は、レガートを守ることが貴女を守ることに繋がると思うから、こうして正攻法で地道に廻ってますけど」
「うん、……?」
近頃、眠りが浅かったのが嘘のように、うとうとと眠気が忍び寄ってきた。
主の少女が懸命に重い瞼を上げようとしているのに気づいた従者は、くすり、と笑ってそこに口づけを落とす。
ぴくり、と少女は震えた。
「今は……ゆっくり、お休みなさい。エルゥ」
ーーーうん、と辛うじて返事はできたろうか。
寝台に腰掛け、半身をレインに預けたまま安堵のため息をほぅ……と吐いた、エウルナリアの意識は深く深く、眠りの底へと落ちていった。
主の柔らかな身体をそっと横たえ、サンダルを脱がせた従者の少年の灰色の眼差しは、ひた、と東に向けられている。
朝になれば露台から臨むこともできる、川幅ばかりが広い国境の川向こう。
次なる目的地。砂漠の、方角へ。




