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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十六歳篇 迫る秋(一)

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58 従者の立ち位置

 馬が駆ける。

 先頭は黒髪の令嬢を乗せた体格のよい葦毛の牡馬(ぼば)。続けて穏やかな黒目に賢そうな光を宿した栗毛の牝馬(ひんば)

 騎手はエウルナリアを前に乗せた騎士シエルと、令嬢の従者にして皇国楽士、レインだ。


 かれらは一路、エナン山脈の稜線を目印に北を目指す。出来うる限界の速さと言っていい。柔らかな草を蹴散らし、都を発ってもう八時間も経過したろうか。

 以来、最低限の馬の休憩しか取っていない。エウルナリアも体力的にきつい。が、何とか堪えている。


 (はやく……早く、伝えないと)


 その一念で。祈るように前を見据える。


 吹きすさぶ風の音。(ひづめ)が地を蹴る震動音。馬たちの息遣いも荒い。かれらの限界も近付きつつある。

 何とか先発組の三名に合流できればーーと焦り、馬脚を急がせた視線の先に。


 遠く、茜色の空と雲のような白い月が浮かぶ青灰色(せいかいしょく)の空の狭間、細長い黄色の布をはためかせる、長い長い一本の旗が見えた。

 ほっ……と、騎士が令嬢の頭上で息をつく。


「良かった……間に合いましたよ、エウルナリア嬢。大丈夫。殿下がたは先に集落へと入っているはずです」


「はいっ……!」


 流石と言うべきか、シエルの声は馬を操りつつもしっかりとしている。

 黄色の陽の部族旗に続き、地平の先に現れたのは、見覚えのある移動式住居(ゲル)の群れ。

 遠目に集落の若者達が数名馬に乗り、羊を柵に追い込む姿が見られた。羊の鳴き声とカランカラン……という鐘の音、かれらの独特な掛け声が風に流され、微かに耳に届く。


 それらの集落から少し東に逸れた方向。ぽつん、と一棟だけ建つ白いゲルを見いだした瞬間ーーー令嬢は、ようやく安堵の息を吐いた。


「……よかった……」


 口の中で呟いた言葉は、背後のシエルまで届かない。唇から(こぼ)れてすぐ、草原のどこかへと(はや)い風に運ばれていった。




   *   *   *




「エルゥ……! 良かった。ほんとに心配だったんだから……っ!!」


 ゲルの中に入るなり、鬼の形相のゼノサーラに責められた。「すみません……」と、ひたすら縮こまるしかないエウルナリア。


 草原の夕食は遅い。

 男性陣は走り通しだった馬の世話や、集落に食料その他を買い付けに行ったりと忙しい。黒髪の少女は、この隙にーーと身を清め、着替えなどを手早く済ませる。


「どうだった? あの巫覡様。貴女は貴女で、カイザ様が心配だったんでしょ?」


「えぇ。それは確かに……わかりました?」


「丸わかりよ」


 じとり、と。

 皇女の目はまだ据わっている。少女の独断を許す気はなさそうだ。ーーそう言えば、レインともあまり口をきいていない。

 眉尻を下げ、エウルナリアは苦笑した。


「……カイザ・ハーンについては大丈夫そうです。確かに現状は傀儡の王ですが、将来的には名実ともに(ハーン)とおなりでしょう。セヌー老の改革が、実を結べばなのですが……」


 ぴく、とゼノサーラの表情が動く。


「星読みの塔の……視察、でいいのよね? 有益な情報は得られた?」


「はい。夕食の時、皆さんに伝えるべきか。シュナ様とサーラだけに伝えるか……迷うところです。集落の人に聞き耳を立てられても困りますし」


「レインには? いいの?」


「……話して、宜しいのですか? かなりの機密でしたが」


「貴女ね……それ、直した方がいいわよ。無意識に役目大事になっちゃうところ。宜しいも何も、レインは貴方が決めた未来の夫でしょうが」


「さっ……サーラ! 声! 声が大きいですっ……!!」


 いくら分厚いとはいえ、ゲルの布越しに馬を世話するかれらに聞こえるかもしれない。それほどの声量だった。


「いーえ、やめないわよエルゥ。この際だからはっきりさせとく。せめて、この旅の間くらいあいつを実質的な婚約者として扱ってやんなさいよ。見てらんないわ……! そんなだから、うちの愚兄が諦めきれないのよ。気持ちはわかるけど」


「サーラ様……」


 激昂する銀の皇女の想い人を知る少女は、ふっ……と抑止のために挙げていた両手を下ろし、胸の前でゆるく握り込んだ。

 気遣わしげな視線を送るしか出来ない。


 何の因果か、この女性(ひと)は父である楽士伯アルム・バードその人を思い切れずにいる。そのことを思い出し、つい敬称を付けてしまう。


 皇女は、キッ! と(まなじり)をきつくし、エウルナリアの両頬に指をかけた。もちろん遠慮なく引っ張るつもりだ。


「い……、痛い(ひたひ)っ。サーラ(さーや)っ!」


「『様』なんて付ける貴女がいけないのよ。ねぇ? レイン」


「!!!」


 ばさ、と扉布を開けて沈む夕陽を逆光に入ってきたのは、シュナーゼンとレイン。


 軽く外で顔や手を清めてきたのだろう。顔周りの栗色の髪が濡れている。

 しん、とした涼やかな灰色の瞳。

 けれどとても密やかに籠る熱が自分だけに向けられることを、少女は知っている。


 シュナーゼンは何とも言いがたい微妙な表情で。レインはいつもの穏やかな微笑を湛えて。

 二人はゲルの奥まで辿り着くと、姫君同士のじゃれ合いを有無を言わさず止めさせた。


 ゼノサーラは、つん! と横を向き、両手を腰に当てて知らんぷりしている。

 ひりひりと痛む頬を押さえ、何となく上目遣いで従者を見上げるエウルナリアに、レインはにこり、と微笑みかけた。


「……貴女の頬を赤くしていいのは僕だけでいいんじゃないかな、と常日頃から思ってるんですが……サーラ様の仰ることも(もっと)もですよ? 気を付けてくださいね。本当に」


「いじわるレイン……」


 ぼそっと呟いた言葉は、耳聡(みみざと)く聞き咎められた。にっこりと笑みを深めたレインに、更に追い詰められる。

 じり、とにじり寄られ、やたら色気を含むまなざしで頬に手を添えられた。


「なるほど、塞いで欲しいのはこちらの口ですか。わかりま」

「あーっ!! もうっ! わかりました、ごめんなさい気を付けます!!」


「……わかってくださって嬉しいですよ。エルゥ」


 にこにこと笑む迫力の従者を、単なる従者として扱うのは確かに苦があるなーーーと。

 恋敵のシュナーゼンですら思ってしまったのは、この際秘密である。


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