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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十六歳篇 迫る秋(一)

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57 密約

「へぇ」


 キオンの、切れ長だが少し目じりの垂れた黒瞳が軽くみひらかれた。

 暴れるカイザを右腕一本で胸に抱きつつ、視線の照準はエウルナリアだけ。射るように定められている。


 ーー見た目ではない、内面を量られていると感じた少女はあえて動じない。むしろ、より柔らかく笑みさえした。

 黒目がちな瞳に宿る光は表情に反し、どこか(つよ)い。


 ふ、とキオンの口から息が漏れる。細められた目許の光が和らいだ。


「なるほど、あんまり見ない“(そう)”だと思ったけど……期待以上だ。お手柄だねカイザ」


 にこにこと、胸元に抱え込んだ少年の黒髪をぐっしゃぐしゃに撫でている。

 次の瞬間には「あぁあもうっ! 触るな一々(いちいち)!」と、勢いよく腕ごと叩き落とされていたが。


 ーーさら、と衣擦れの音がした。

 巫覡(みこ)の青年は舞うように緩やかに長衣の裾を(ひるがえ)し、再び上に向けて昇り始める。風をはらんだ白絹が再び、元に戻ったとき。


「いいよ、教えてあげる。でも見たほうが早いかな。……おいで? あと少しだから」


 チャリ、と微かな金属音。

 額飾りを揺らして振り向いたキオンは、きゅっと唇を引き結んで段上を見上げるエウルナリアに優しく微笑(わら)いかけ、流れるような所作で左手を差し伸べた。




   *   *   *




「! ……すごい……これ、全部……?」


 キオンに右手を引かれて最上階まで到着したエウルナリアはーーーぐるり、と周囲を見渡したのち盛大に呆けた。

 天井まで届く一面の書架。本。本の壁。あふれて床にまで積まれている。結構な書籍、或いは巻物の量だった。


 長い、ながい階段を昇りきった直後である。無意識に深く息を吸い込む。

 肺と鼻腔を満たしたのは、古い書物の微かなな(かび)の匂い。長い年月を経た紙束が醸す、馴染みのある空気だった。

 ……どこか似た雰囲気の図書の塔。湖の(ほとり)に建つオレンジ色の屋根の学舎。少女はたくさんの思い出が詰まったその場所ーー西塔を、鮮やかに心に甦らせる。

 それこそ、胸いっぱいに。


「そう。すべてに代々の《星読みの巫覡》が記した(そら)の星々の運行、そのとき起こった出来事なんかが書き連ねられてる。あとは、人が産まれたときの星の配置の記録とか……

 形態もそれぞれだね。紙の巻物もあれば綴られた書物もある。羊皮紙もあるし、木片を糸で繋げて()じたもの。少量だけど石板も。年代別に分けてはあるけど、結構ごちゃ混ぜかな」


 珊瑚色の唇は半開きのまま。エウルナリアはまだ呆然としている。

 長身の巫覡は無防備な少女を斜めに見下ろし、くすりと笑み溢した。結果、流し目を送るような表情となる。


「最上階は、そこ……棚の裏に木の階段があるだろう? その上。さすがに細かい道具だらけで見せられないけど、星を観測するための部屋がある。寝室も兼ねて、ね。……上がりたい? カイザにはここか、階下(した)で待っててもらって。ーー一寸(ちょっと)だけ。きみだけになら、いいよ」


「え……、いいえ? とんでもない。こちらの文献のお部屋だけで充分ですわ。国家機密なのでしょう? おいそれと口外はいたしませんが……流石にこれ以上は」


 エウルナリアは右手を巫覡に握られたまま、頭をぶんぶんと横に振り、全力で遠慮した。

 ーー何というか、遠慮すべきであると本能が働いた。急いで話を逸らすべく、自由な左手で頬にかかる黒髪を耳に掛け、キオンとは反対側に佇む少年を覗き込む。


「陛下は、こちらへは何度もお越しなのですか?」


「え!? あ、あぁ……いや。滅多に来ない」


 不意に、間近で落とされた鈴ふる声に、カイザは少し慌てた。


「小さいときはよく遊びに来てたらしい。でも、王になってからはその……あまり。キオンと二人っきりになるのは、ちょっと苦手だ」


「ふふっ。つれないなぁ、二人とも」



 書物に埋もれた部屋の一角、辛うじて床の見えるスペースには複雑な模様の絨毯が敷かれ、こじんまりとした卓と椅子が二脚ある。白木の一枚板を用いた卓の中央には、可愛らしい形のランプが一つ。

 キオンは二人に席をすすめると、自身は階段の側、窓近くにあった作業用とおぼしき机から椅子を運び、かたん、と置いた。


 飾り気のない木の椅子は豪華さとは縁遠く、民の尊崇を一身に集める神秘の巫覡の住まいというよりも、一介の隠者のそれを思わせた。


 ぎ、と椅子を軋ませ、青年が浅く腰掛ける。足を組み、楽な姿勢で背凭れに体重を預けた。ふぅ……と息を吐き、瞑目している。


 ぱち、とひらいた視線の先は愛しい小さな国主ではなく、異国の令嬢ただ一人。


 反射でエウルナリアは、ぐ、と身構えた。

 経験上、こういう間をとられる時は何かと重要な案件を切り出される場合が多い。


 青年巫覡はほんの少し首を傾げると、ごく軽い口調で少女に問い掛けた。


「きみさ、今、厄介な奴に言い寄られてない?」


「……っ……え?」


 ばくん、と心臓が揺れる。

 思わず漏れた声に自分でも驚き、慌てて両の手のひらで口を(おお)った。が、遅かった。


「厄介な奴……お前だな?」


「ちがう」


 わりと真剣な表情(かお)で確認して来た少年王に微苦笑を送り、キオンは言葉を重ねた。


「あの、厄介で稀有な“覇者の相”の持ち主が動いたのは自国(ウィズル)の外に欲しいものを見つけたからだ。

 きみだよね、エウルナリアどの? かれを焚き付けたのは」


「焚き付け、てなんて……」


 ぶるっと身震いをする。

 とっさに、脳裡に『つくづく、嗜虐心を煽る(やつ)だな……』と。

 あの時、あの夜避けようのない熱を込めてささやかれた、胸の内側を引っ掻くような声ーーディレイの低く掠れた声を、まざまざと思い出してしまったからだ。


 無意識なのだろう。自らを抱くような仕草を見せて表情を曇らせる少女に、キオンの視線に若干、労りの色が生じた。


「まぁ……今から話すのは《星読み》として知り得たことと、過去にここで起きたことだよ。それが、セヌーと僕の密約に繋がってる」



 話すも話さぬも、きみの自由だよーーーと、青年は告げた。


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