55 巫覡と少年、陽の老爺※
「キオン、何しに来た……!」
「何しに、て」
カイザは毛を逆立てた猫のように闖入者を威嚇している。が、その行為は威圧感を伴わず、かえって年相応の愛らしさを滲ませるだけだった。
チャリ……と細かな金属音。
男性の額に布とともに巻かれた、細い銀鎖に連なる幾つもの装飾が重なり、小さな音をたてている。よく見ると両の手首も同様の装飾が幾重にも巻かれ、柔らかな光を放っていた。
小首を傾げ、悠々と腕を組む――ただそれだけの動作。音はそれに不思議と色を添えている。
巫覡と呼ばれ、キオンと呼ばれるこの男性が草原における精神的支柱、“北極星の君”なのだろうと、一同は瞬時に理解したが……
かれは、固まる客人らに構うことなく室内を横切り、最奥の椅子に腰掛ける少年の傍らまで歩み寄った。
踝まである白絹の長衣の裾が、あえかに揺れる。気安い口ぶりにそぐわない、流れるような足運びだった。
「定められた背の君の帰還と聞いて。久しぶりだったし、楽しかったろう? 天守宮の外は。どれ、元気になった顔を見せてごらん」
見せろと言いつつ、しれっとカイザの紅潮した左頬に手を滑らせている。
ぱしっ! と直ちに叩き払われていたが、本人は愉しげにくすくすと笑うのみだった。
「誰が『背の君』だ、このド変態! 今さらだけど、なんで他の部族から女王を選ばなかった。おれを擁立したお祖父様といい、わけがわからない……男は、伴侶になれないだろ」
「なれないねぇ。でも、好きだから」
「顔が、だろ?」
「そう」
「馬鹿かお前。ほんと、頭痛い……だめだ。もう一回出奔して来る」
―――と、そのとき。
開け放たれたままの戸口に人の立つ気配がした。
「それこそ『だめだ』なカイザ。……今朝がた侍従長から聞いたぞ、まったく。放蕩孫め」
「お祖父様……」
「や。セヌーおはよう」
少年王は、不服そうなしかめっ面。
巫覡は親しげな笑顔。
黒い官服をまとい、総白髪をすっきりとうなじで一本に束ねる矍鑠とした老爺は、厳つい顔を若干和ませ、「おはようございますキオン様」と返す。
白い眉の下、老いてなお黒曜石のような瞳がスッと淀みなく動き、居並ぶ客人らを捉えた。
「ようこそ、レガートからのお客人。昨夜は陛下がお世話になりました。が――……どうやら、別の案件がおありか?」
しずかだが猛々しい。鷲のような視線だった。
* * *
「確かに」
コト、と茶器を置く音。
セヌー老のために用意された、新たな発酵茶がほのかに温かな湯気をたてている。
しん……と静まる室内に、老爺の声は重々しく響いた。
「鷹でやり取りは、していますな。しかし我らも無益な争いは好まない。シュナーゼン皇子、ゼノサーラ皇女。マルセル陛下にお伝えあれ。オルトリハスは、貴国には攻め込まぬ、と」
「そう、ですか……ありがとうございますセヌー老。貴方のような方がオルトリハスを率いるときで本当に幸いでした。時に、改革はお進みですか?」
おや? と他のレガート勢が目を丸くする。
――意外だ。シュナーゼンが、他国の国政について話題を供している。
周囲の驚きを余所に、銀色の皇子は口許に優雅な笑みを浮かべ、セヌー老からの返事を待った。
「フフ、なかなか一朝一夕には参りませぬな。貴国から時々、学者どのを派遣してもらってはいますが。こと、族長の家族は頭が固い。月は長い雲に巻かれることもあろうが、風は思う場所にしか吹かぬでしょうな」
……他国を内心で見下す月の部族と、堂々と蔑ろにする風の部族の隠喩だとエウルナリアは気づく。おそらく、他の皆も察している。
シュナーゼンは皇子然としたきらきらしい容貌ににこり、と笑みを湛えたまま、ごく自然に、息をするように務めを果たしていた。
「どうか。いつでも我らで助力できることがあれば仰ってください。あまねく諸国の友誼をはかるのは、父の本意ですので」
「……」
す、と。
傍らで、双子の兄と同調するように銀の皇女が紅い瞳を伏せ、たおやかに優雅な会釈をした。
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※キオンとセヌー老のイメージはこちら。




