53 束の間の
時刻は、夜の十時。
結局、カイザは四人部屋の寝台の一つを使い、普通に泊まることになった。
何だかんだと寝入るまで話し相手をしていたエウルナリアも小さく欠伸をしそうになり、慌ててぶんぶんと頭を振る。
そっと、傍らで同じように少年王の寝顔を覗いていた、寝台の本来の主を見上げた。
「すみません、ロキさん。私が勝手をしたせいで……」
話し合いのあと、体力の限界だったゼノサーラは早々に階下の二人部屋へと戻っている。
騎士隊長はにこっと目許を和らげた。
「いいえ。流石といいますか……お見事でした。無事、明日はセヌー老との会見も取り付けられたわけですし。カイザ陛下もこのとおり、ずいぶんと貴女に懐いておいでだ。きっと、佳きようにお口添えしていただけますよ」
「だと、いいんですが……」
黒髪の令嬢は自信なさげに微笑んだ。目許がとろん、としている。かなり眠そうだ。
「レインどの」
「はい」
「きみの姫君を、お部屋まで送ってもらえるかな。そのまま深夜まで不寝番をしてほしい。深夜過ぎに交代に行くから」
* * *
扉を閉めて主従は廊下に出る。三階はしん……と静かなものだったが、とん、とんと揃って階を降りると徐々に一階の酒場の賑やかさが耳に届いた。
楽士というわけではなさそうだが、竪琴を爪弾く音と伸びやかな青年の歌声が聴こえる。旅の吟遊詩人――まずまずの技量だ。
詩と調和するように、時おり声を合わせて歌う人もいる。朗らかにさざめく人びとの気配が階段を伝い、寄せては返す波のようだった。
(……歌いたい気持ちは、あるのにな……)
エウルナリアは無意識に、先を歩く従者の服の裾をつまもうとし―――逆に、指先を掴まれた。
「!」
「エルゥは」
とん、と背中が手摺に当たる。使い込まれた、つやつやと輝く焦げ茶の木の感触。三階から二階へと降りる、踊り場に至る前の薄暗い階段の半ばで、姫君は従者にやんわりと縫い止められた。握られていない右手は自由だが、そちらはレインの左手が手摺に掛けられているので、どちらにせよ身動きが取れない。
――何か、言うべきだろうか。
ぼんやりと霞む頭で考えようとしたが、上手くいかない。やがてレインが言葉の続きを溢しはじめた。
「隠し事も苦手だよね」
「え。……はい?」
掴まれた指先に口づけられ、しかも敬語を取り払われた。反射で眠気が吹き飛ぶ。訊き返したこちらが敬語になった。
レインはにこり、と容赦なく唇の端を上げる。愉しそうなのに、すごく怒っているようにも見える不思議な表情だった。まるで、心の奥底でひどく泣かせてしまったかのような。
視線も、思わず縫い止められる。
「歌えないままなら楽士伯家を継ぐ資格がないとか。最終的には自分からあっちに身を与えればいいとか。……ちらっとでも考えなかったと言える? 言えないでしょう。それで、アルム様や僕が納得できると思ったの?」
「思……わ、ないわ。でも」
「『でも』じゃない。聞いて、エルゥ」
近い。
ほぼ抱き締められている状態に近い。
指を離され、頬を一撫で。そのまま耳許まで長い、乾いた指先の感触を残したあと。頤を持ち上げられ、熱くて赤くて恥ずかしかった顔をそっと上向かされた。
「……」
聞いて、と言ったわりにレインは何も話さない。代わりに柔らかなエウルナリアの唇と口内を思うまま堪能している。何度も何度も、繰り返し――――
微かな、林檎酒の香り。
気持ちよくて、閉じた目を開けたくない。このままずっとレインを感じてたいな―――と思うと、自然と身体が寄り添うように動いた。
溶けてしまいそうになるのがくるしくて、レインの服の胸元をきゅ、と握る。くっきりと、皺になるほど。
「……エルゥ……エウルナリア……」
切なげな、いつもと違う声音にどくん、と心臓が跳ねる。離れた温もりが恋しくて、自分から従者の背に腕を回し、胸元に頬を寄せた。
―――温かい。すき。これじゃ物足りない。
レインの、主の少女をかき抱く手に折れそうなほどの力が加わる。
「どれほど、きみが欲しくてたまらないか。一度でいい。今、こんな時だから余計に婚約まで待てないって、わかってほしいよ……」
耳許でささやかれた言葉に、ぼうっ……となったエウルナリアは思わず、一も二もなく頷きかけて―――ふ、と微笑った。
ほわほわとして気持ちいい。酔っているのかもしれない。
「……嘘つきレイン。『一度でいいって人は、たいてい二度も三度もねだるものだよ』って、前、お父様が言ってた」
くすくす、くすくす。
幸せそうに、擽ったそうに笑う姫君に。
レインもまた、ひどく幸せそうに―――けれどやっぱり泣きそうな顔になる。
細く柔らかな肢体を抱き寄せ、背を撫で上げる。首筋に顔を埋めて、腕のなかにぎゅっと閉じ込めた。
「……間違いないです……」と。




