51 悼む心 それでも
ぱたん。
扉の閉まる音。銀の皇女はじとり、と先に入室していた黒髪の友人を睨んだ。
「貴女もたいがい、大胆よね。胆が冷えたわ」
「すみません。無我夢中で……」
少女は、小柄な身体をさらに縮ませる。しゅん、と音が聞こえそうなほどだ。
皇女の後ろからは、さらに追撃の声が聞こえた。シュナーゼンだ。
「だよね。でなきゃあんな公衆の面前で熱烈な抱擁とか。うらやま……あ、ごめん。何でもないです」
「……シュナ様?」
エウルナリアは疑問符とともに首を傾げ、頭一つ高いゼノサーラの後ろ、皇子の顔が見える場所へと移動した。
淑女にあるまじき行為だったと責められるんだろうな――と、身構えた矢先だったので、矛先が引っ込められたことに「?」が止まらない。
が、皇子だけでなく従者の氷の視線とも出くわした少女は「!!!」と、極大の感嘆符に切り替えた。
――なるほど。
これは引っ込めざるを得ない。
「レイン……あの」
「……びっくりしました。知己の方だったんですね、エルゥ。ご紹介いただけますか? 貴方も。まずはお掛けになってください。こちらです」
「あ、あぁ。……先ほどはすまない、感謝する」
つられて気圧されていたらしい少年は、借りてきた猫ほどしおらしい。
レインが案内したのは、明らかに少女達の二人部屋より大きな多人数用の応接スペース。
それは、入り口からほど近い木と布の衝立の向こう側にあった。
「では。どうぞ、カイザ様」
「!」
隣で、銀色の皇女が訝しげに動きを止める。「え、嘘……?」と、口からは呟き声が漏れた。
(そうか。サーラなら名前は把握してそうだよね……)
黒髪の少女は、来る衝撃をできるだけ和らげる紹介にすべきかしら……と思案しつつ、大人しくなった少年の手を引いた。
* * *
「―――と、いうわけで……偶然お会いできて幸運でした。こちらがオルトリハスの国王、カイザ陛下ご本人です。草原の言葉で“王”を意味する『ハーン』を名前のあとにつける場合もありますけど。……カイザ様、なにか決まりごとはあります? 『ハーンじゃない、ハンだ』とか、『いや、カンのほうが本来の表記に近い』とか」
「い……いや、特にない。むしろ、こんな場だし。聞けば、貴女がたもお忍びなのだろう? 敬称などいらない。好きに呼んでくれ。だが……」
「? はい?」
すらすら、すらすらと居並ぶ面々に少年王を紹介し終えた黒髪の少女は、いつも通りゆるく小首を傾げ、言葉の続きを待った。
少年は、はっきり言って気圧されっぱなしだ。
落ち着いた、老舗と言って差し支えない旅籠の上客のための部屋は寝室が二つ、サロンのような小部屋が一つ。造りはレガートの家屋敷とそう変わらない。
その、サロンに設えられた落ち着いた赤の布張りのソファーセットに一同は座している。テーブルの天板は乳白色の大理石だった。
ソファーの傍ら、後ろ手を組んで立つ騎士と思わしき男性二人はともかく。見目麗しい銀細工の如き双子の兄妹やうつくしい調和を見せる一対の主従に関しては。
―――存在そのものが、物語じみて濃い。異国の顔だちであることを差し引いてもきらきらと目を惹き、その一挙手一投足までが、優れた風貌・美貌の展覧会のようだった。
なぜ、自国内でこうも孤立感に苛まれるのかはさておき……
こほん、と軽い咳払い一つでカイザは気持ちを切り替えた。透き通ったまなざしで青い瞳のエウルナリアに身体ごと向き直り、困ったように微笑む。
「いや。……ずいぶん我々の風習に詳しいのだな、と。祖父から聞いている。特に貴女には、よい感情を抱ける国ではないだろう? 我が国は」
「あぁ……」
確かに。
今ある知識の多くは十歳のとき、家庭教師を務めてくれた女性から得たものだ。
アリス・ユーリズ女史――各国の歴史や法制度に明るい彼女は、まさに外交面における才媛と呼ぶにふさわしい。エウルナリアにとっては恩師であり、年の離れた友人でもある。
結婚し、一児の母となった彼女とは中々会う機会を作れないが、それでも年に一~二度は茶会をひらく。季節の便りのやり取りも。
父から聞いた祖父母の件は、そういった諸々の知識や思い出、繋がりの上に、そう……っと横たわっている。
会ったことのない祖父母の、おそらくは非業の死。それはまだ十三歳だった父の心を無惨なまでに切り裂いた。
流れた心の血を止められず、“歌”もろとも凍らせることで凌いだのだと容易に想像がつく。
尊敬していた。愛していた。心の拠り所であり人生の先達でもあった両親を、理不尽に奪われた―――喪失感。
自らの無力を呪いたくなるほどの嘆きや怒り。“歓び”の尽くまで封じてしまう感覚。
今のエウルナリアは、それらを打ち沈む哀しみとともに理解する。
確かに、父はオルトリハスに赴いたことはない。招かれたこともないはずだ。つまり――年若いカイザですら引け目と感じるほどの、国家としても惨事だったのだろう。
エウルナリアも、その事実を聞いてからはずっと心につめたい澱が沈んでいる。瞑目し、道半ばにして断たれた、血を繋いでくれた故人らを悼む。しかし……
ひそめられた眉の下、伏し目がちにひらいた湖の色の瞳。たゆたう波に似た揺らぎはもう、零れ落ちることはなかった。
父の哀しみは父のもの。憎しみもまた。
エウルナリア自身には、アルムほどの感情を抱き続けることはできないのだ――――情の薄いことと謗られ、責められたとしても。
だから、凛として面を上げた。
「いいえ、カイザ様。もう……過ぎたことです。きっと、だからこそ。父は、私をこの地に送り出したんだと……そう、思っています」
喉がしまって、とつとつとしか絞り出せない声で。
それでも、偽りのない言葉を少女は溢した。




