5 揺らぐ心※
―――認めない。
断じて、これは口づけじゃない―――!
夜闇に沈む露台で、黒髪の姫君が西国の王に囚われている。
両手に持たされていたグラスはとっくに奪われ、手摺の上にコト、と置かれていた。その落ち着き払った態度に、余計に胃の腑が煮えくり返る。
ディレイの行為は執拗で、エウルナリアは懸命にもがいたが抜けることも、やめさせることも出来なかった。
口のなかが苦いし熱い。左手が顎にかけられる。背にも感触。ぞわぞわして、逃げたい。屈服させようとする意図を感じて、そのことに更に足元から力が抜ける。―――抗いたいのに!!
つと、唇が離れた。
(おわった……? やっと?)
顎を捕らえられているため、視線を逸らせない。腰を抑えられているから、身体を離せない。呼吸を奪われていたから、息が乱れる。
優美な眉が苦しげに歪み、長い睫毛に縁取られた青い目尻に涙が溜まっている。瞬きをした拍子に、それは悔しいことに耳のほうへ流れた。
「……っ…!」
ぞく、とする。耳許に流れた涙を舐め取られた。身体が勝手に震える。涙も止まらない。
ディレイは呆れたように、しかしどこか熱っぽい、胸の内側を引っ掻くような声で告げる。
「……つくづく。嗜虐心を煽る女だな…べつに苛めてるつもりじゃ、ないんだが」
「煽って、ない……! 貴方はひどいひとです! こんな…ッ」
再び、呼吸を奪われた。
とっさに、瞼を閉じてしまった。
徐々に抗う気力も奪われつつある。でも、断固としてこれは違うと言い聞かせた。そうしないと―――
(レインに、どんな顔であえばいいの)
弱気になった、そのとき。
「――彼女を、離しなさいディレイ王。無体は許されない」
広間から洩れる明かりに人影が差し、コツ、と響く足音。
しん、と凍るほど固い声音が露台に落ちた。
* * *
(ユシッドさまだ…!)
朦朧とする気力を振り絞り、腕の力がゆるんだ隙にエウルナリアは、どん! と目の前の胸を突いて、ようやく拘束から逃れた。そのまま司祭服の胸に飛び込む。
やさしい腕。労るような手の添えかたに、ひたすら安堵を覚える。
たぶん、現れたのがレインなら心が張り裂けていた。……こうは出来なかっただろうと気づき、慄然とする。
姫君を一時、手のなかに納めていた西国の王は悪びれず、視線をアルユシッドに流した。
額の前に落ちていた長い砂色の髪をかきあげながら、頭の天辺から足の爪先まで白銀の青年を眺め、無遠慮に吟味している。
「……レガートの第二皇子、新司祭どのか。いいだろう。いずれ、正式に所望する」
「この女性は、皇国の歌い手だ。他国には嫁がない。ぜったいに」
大広間の灯りを背に、秀麗な顔に無表情を貼り付かせたアルユシッドは、しずかに。揺るがぬ声で答えた。
「ふぅん? まぁいい。方法は色々とある。
――じゃあ、またな。蝶々の姫」
「……っ、…」
エウルナリアは、びく、と反応し、アルユシッドの腕のなかで身体を固くする。返事がないのは想定内か、来たときと同様カッ、カッ……と靴で床を微かに鳴らし、音は露台から離れて行った。
「……すまない、エルゥ。来るのが遅くなって」
気遣わしげな皇子の声に、少女は俯いたまま力なく首を振る。後頭部に、レインとは違うけれどやさしい手の感触がした。
アルユシッドは眉根を寄せて、そっと、壊れものを扱うように少女の黒髪を撫でている。
「楽士伯家の歌い手には――とくに、女性には。こういう危険がまま、あるそうです。私は」
一度ことばを区切り、そっと腕の中のエウルナリアの頬に手をかけ、上向かせた。
「こうは、させない程度の抑止力になれる。――貴女を二度と、こんな目に合わせない。
……どうか考えてください。貴女の伴侶について、もう一度」
やさしい指で涙を拭われながらも、エウルナリアは、すぐには言葉を返せずにいた。
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※ディレイ王のイメージはこちら。




