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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十六歳篇 疾く過ぎる夏

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45 風紋の国(2)

 五頭の馬で隊列を組み、並足よりやや速く駆けること少々。

 右手に黄金色(こがねいろ)の落陽、左手に藍色の夜を滲ませる空を背景に、突如天を突くようにしなる長い一本の棒が見えた。


 (いただき)に、つよく(はや)い風に千切れそうなほどパタパタと、黄色い細布がはためいている。


 エウルナリアは馬上で舌を噛まぬよう、背後の騎士に問いかけた。


「ロキさん、あれは……?」


 名指しの質問に騎士がぴくりと反応する。すぐに意図を察し、黒髪の小柄な頭の上に「あぁ、あの旗ですね?」と、落ち着いた声がこぼれ落ちた。


 (ひづめ)が地を蹴る音、走る馬の汗や息遣い、それらを瞬時に流し去る風の音。

 身体を密着させぬよう、ぴんと背筋を張って距離を維持するエウルナリアにも、ロキの声はちょうど良い音量で届いた。低すぎず、穏やかだが仄かに芯がある。やさしい声音だ。


「あぁやって、集落の位置を示すんですよ。旗の色で部族名もわかります。黄色は穏健なセヌー老率いる()の部族。我々には幸運でした」


「なるほど……詳しいですね?」


 一行の護衛と先導を任されたレガート騎士団の東方隊長―――ロキは、ふわりと口許に笑みを浮かべる。


「長かったですからねぇ、東方勤務。合わせて五年ほど、キーラ画伯の護衛官を務めましたので」


「え。すごい……! お隣のイヴァンおじさま、オルトリハスではずっと都にいらっしゃるのだとばかり思ってました。……ひょっとして、各部族の集落も?」


「えぇ。なかなか奔放な方ですよね、キーラ卿。あろうことか一通り廻る羽目に……っとと、失礼。見えてきましたよ。あれが草原の民の住居『ゲル』です」


 す、と顔の前で指し示された右腕の人差し指。

 視線で追うと、白い碗を逆さにして大地に被せたような形のテントが幾つも見えた。どのテントの中央部分からも煮炊きの煙が上がり、細くたなびいている。

 ―――慎ましやかな人びとの気配。

 風変わりではあるが、暮れ時のおだやかな村そのものの風情を感じた。



 かれらの住まう大きなテントは、正確には移動式住居(ゲル)と呼ぶ。家畜の餌となる草の生い茂る地を季節ごとに移動し、定住地を持たない草原の民独自の組立式家屋だ。

 つまり、解体した家屋ごと年に数度、部族単位で引っ越しをしている。


 おそらく黄色を象徴色(シンボルカラー)とする“陽の部族”は、この界隈を夏の放牧地と定めているのだろう。

 レガートと違い、みんな黒髪黒瞳だ。遠目に髪を高く結い上げた男性や片側で三つ編みにした女性、()き髪の幼子らの姿が垣間見えた。壮年も、老人も。

 みな、乗馬に適した動きやすそうな服装で青や赤、黒など草原の中ではパッと目につきやすい色に染められている。比較的豊かな部族らしい。


 が、先頭をゆく騎士のロキは、くっと右手で手綱を引き、集落から少し離れたところに建てられた一棟のゲルへと向かった。


「?」


 てっきり集落のなかで過ごすのだと思っていた少女は拍子抜けする。疑問はそのまま口をついて出た。


「ロキさん? 私たちは集落の(かた)にご挨拶しなくてもいいんですか?」


 斜め上を仰ぎ見るように、背後の騎士隊長に問うエウルナリア。ロキは少しだけ困ったように微笑んだ。


「挨拶といいますか……部族長との交渉は我々だけで済んでいますし、代金も支払い済みです。あのゲルはかれらの共有物、つまり予備で、部族が管理すべきもの。個人のものではありません。それに――」


「それに?」


 ちら、と斜め後ろを走る部下の騎士に(もた)れるように、横座りでくったりと項垂(うなだ)れるゼノサーラを視線で示した。

 ぴん、とエウルナリアも何かに気づく。


「サーラを見られると、まずいんですか?」


「まずいのは貴女もですよ、エウルナリア嬢。かれらの風習には『略奪婚』というのがありまして。……事実さえ作れば、婚姻が成立してしまうんです。かれら的に。もちろん、お守り申し上げますが。波風は立てぬに越したことはありません」


「え?! あ、あぁ……それは……そうですよね。お気遣いいただいて、有難うございます……」


 自分を棚上げしていた事実を突きつけられ、少女の声は徐々に蚊の鳴くような弱々しいものとなった。

 くす、と笑む声が頭上から漏れ聞こえる。


「どういたしまして、()()


「……ッ」


 なにげない呼称だった。

 にもかかわらず、つきんと胸が痛んだ。


 (どうしよう。このまま―――歌えないままなら私、レガートに居る意味がない。それって……)


 物騒な方向に舵を切りかけた思考を、少女はぶんぶんと勢いよく(かぶり)を振って追い出した。

 ロキは驚き、眼下で波打つ豊かな黒髪に隠れてしまった繊細な横顔を覗き込む。


「エウルナリア嬢? どこか、具合でも?」


「! いえ。大丈夫、あの……考えるべきではないことを考えてしまって。―――すみません、未熟でした」


 予想したよりもきっぱりとした可憐な声音に、ふいにこの小柄な女性(ひと)はレガートを代々支えた名門、バード楽士伯家の跡取りだったと思い出す。

 目の前の華奢な双肩にかかる重みは如何程(いかほど)だろう……とだけ察し、それ以上の追及はしなかった。ただ、ゆるりと笑む。


「こちらこそ失礼を。ですが、未熟など……うちの双子殿下をご覧なさい。こう申しては何だが、相当暢気(のんき)でいらっしゃる。しかし、それはあの方達の美点でもあるのです。

 一概に言えないとは思いませんか? 未熟であることが善いか悪いか、というのは」


「善いか、悪いか……?」


 こくり、とロキは頷く。


「そう。この歳になるとね、思うんです。回り道だと焦っていたことが後々、身を助けたり。とんでもない不運に見舞われたかと思えば、そのときに足掻いたことがちゃんと未来を切り開く切欠(きっかけ)になったり……貴女も、今は未明のときかもしれません。ですが夜明け前の闇がいちばん濃いと申しますし。あまりご案じられませんよう」


「!」


 驚いた。

 歌えなくなったことは、まだバード邸の者しか知らないはずだ。にもかかわらず、かなり的確な助言だった。


 胸に、緊張とともに仄かな温もりが灯る。

 斜陽後、ぐっと気温は下がってきたがエウルナリアは肌寒さを感じなかった。前を見据え、ただ深く頷く。


「はい……ありがとうございますロキさん。出来るように、私なりに。……精一杯やってみます」


 (何があっても、必ず戦を避ける手段だけは残ってる……大丈夫、(レガート)も大陸も、大好きな人たちも。絶対に巻き込ませやしない)


 決意とともに、どきどきと心臓が脈打つ。


 エウルナリアはぎゅっと手を握り、暴れる胸元を外套の上から抑え込んだ。


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