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楽士伯の姫君は、心のままに歌う  作者: 汐の音
十六歳篇 疾く過ぎる夏

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44 風紋の国(1)

 360度。見渡す限り、見事なまでの草海原(くさうなばら)だ。

 エウルナリアはかろうじて北と見てとれるエナン山脈の薄紫の稜線に視線を馳せながら、手元の水筒に口をつけた。


 ()は既に西の()に傾いている。空はおだやかな夕暮れ時へと、その色合いを変えつつあった。


 さわさわさわ……と、涼やかな音。

 足元を被う背の低い草がいっせいに靡き、紋様を描いて揺れる。

 そう。たえず吹きつける風とからりとした空気のおかげで、夏なのに全く暑くない。のだが……


 さく、と草を踏み分けて誰かの近づく気配がした。少女はゆるゆると落ちかけていた瞼を押し上げ、足音の主を視界に捉える。


「大丈夫? エルゥ。きついでしょ、馬に慣れてないと。相乗りでも」


「シュナ様……」


 筒状の荷袋ににこてん、と側頭部を預け、座り込んで休憩していたエウルナリアはぱち、と青い目を瞬いた。

 疲労感でそれ以上何も言えないし、立てない。後ろには同様の状態で、さらに重症らしい銀髪の皇女がエウルナリアの肩にもたれ、ぐったりと目を閉じている。


 ひょい、と身軽な足さばきで二人に近寄ったシュナーゼンは、迷うことなく黒髪の少女の隣に腰を下ろした。


「二人とも頑張ったよね、えらいえらい」


 そう言いつつ、蕩けるほどやさしい紅色の瞳を向ける相手はエウルナリアだけ。傍らの双子の妹には視線一つ寄越さない。徹底している。


 女顔なのでうっかり性別を忘れそうになるが、ゆったりと頭を撫でる手指の大きさと寄せられた腕の質感で、ふいにこの人が男性なのだと思い出す。

 少女は曖昧に微笑んだ。


「いえ……恥ずかしいです。私一人、馬に乗ったことがなくて」


「気にしなくていいよ。普通にレガートで暮らすだけなら必要ないもんね、馬術とか。僕らは一応皇族だし、子どものときからみっちり習ったけど。サーラは単なる練習不足だよ。レインは……学院の選択科目で習ったの? あれ。やたら上手かったけど」


「そう、ですね……馬術の講義、確か去年取ってました。レインは昔から器用だし、そういうところ、そつがないので……」


 ずっと髪を撫でられているが、まぁいいかシュナ様だし――と、目を閉じて脱力したまま答える少女の安心しきった姿に、皇子は苦笑した。端整な顔立ちなのでそれすら様になっている。

 ……惜しむらくは、焦がれる相手からは一向に見てもらえないことだろうか。


「あのねエルゥ。僕も(れっき)とした男だし、君の婚約者候補なんだけど」


「知ってます。けど、シュナ様ですから」


「ええっ! なにその謎の信頼?? やだなぁ……よし。(レイン)の居ぬ間に口づけていい?」



「―――だめに決まってるでしょう」


「ぅわっ!」


「おかえりレイン。どうだった……?」



 突如、皇子の背後に落とされた涼やかな低い声音。

 目を瞑ったまま、それでも嬉しそうに口許をほころばせて労う主の少女に、レインは困ったように眉尻を下げた。

 「失礼」とだけ述べ、さっとエウルナリアの脇に片膝をつくと、やんわりとだが有無を言わさぬ迫力で皇子の手を払い除ける。

 そのまま、力なく膝の上に投げ出されていたやわらかな手をとった。


「さいわい、ここから少し進んだところに草原の民の集落がありました。ロキさんが交渉を終えて、大きめの移動式住居(ゲル)を今晩一つ、貸してもらえましたから。立てますか……?」


「うん。ありがとう、あの……サーラはもっと辛そうなんだけど」


 エウルナリアの左肩にきらきらと、夕映えを受けて輝く銀の髪。すぅ……すぅ、とおだやかな寝息が聞こえる。


 (朝から走り通しだったものね……)


 少女の、それとなく友人を気遣う言葉にレインは頬を緩めた。


「大丈夫ですよ。もうすぐロキさん達が戻りますから。そうしたら、騎士様のどちらかにサーラ様も乗せていただきましょう」


「え。ねえ、何この放置状況。僕も頼ってよ」


「シュナ様は、荷物を運んでいただけますか」


「うん、いいよ……って。ねぇねぇ、怒ってんの、レイン? 仕方ないよ、だってエルゥだよ? 目の前であんな無防備にされたら、普通あぁなるって! おーい、聞いてる~??」


 騒ぐ第三皇子はさておき、周囲に目配せするレイン。相変わらずぐったりとしている二人の姫君。


 やがて馬の蹄の音が草と土の上を思うさまに駆ける、ドトッドトトッ……という音が振動を伴い、伝わり来る。

 (いなな)きとともに「どうどうっ」と手綱を引き、馬首をかえしつつ穏やかに問う声が投げ掛けられた。


「お待たせしました、レインどの。どうです? お嬢さん達の加減は。うちの坊っちゃんはお利口さんにしてましたか」


「危機一髪でした」


「それは……大変失礼を。坊っちゃんに代わってお詫び申し上げます」


「いえいえ、未遂でしたし大丈夫。ロキさんが謝られることじゃありませんよ」


「……あぁーもう! なんで、あんたらそんなに息ぴったりなんだよ! 誰だよロキを側付きにした奴!」



「「アルユシッド様ですね」」



「!! ぐうぅっ……覚えとけよ、兄上……!」


 エウルナリアは、疲れを忘れてくすくすと笑い声をあげた。振動につられてゼノサーラも「んん……?」と、目を覚ます。



 やがて、少しばかりの騒動はあったものの、おおむね予定通りの距離を稼いだ一行は、今夜かりそめの宿となる草原の民の集落に向け、すみやかに移動した。


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