38 従者として、恋人として
一頻りアルムの腕の中で泣いた姫君はいま、眠りについている。
朝食の準備ができた旨を告げるため、主の部屋を再訪したレインの目に映ったのは、寝台に腰掛けて泣きながら寝入ったらしい娘を抱擁する歌長の姿だった。
以後、代わりを引き受けて枕元の椅子に座っているわけだが……
(さすがアルム様というべきか……敵わないな)
困り眉のままひっそりと笑みを浮かべ、少女を眺める。
水で濡らしたガーゼを絞り、泣き腫らした目許を冷やすため、そっと乗せる。それでも起きない。額に手をあてるとまだ少し、熱かった。
『頼んだわよ』
脳裡に、姉の眼差しと声が閃くように甦る。あれは邸の人間の総意だった。
「エルゥ、なにを隠してる……? アルム様には言えたのかな。僕にも全部、伝えてほしいよ」
そっと耳許に顔を寄せて囁くと、みるみるうちに白くきめ細やかな肌に朱がのぼった。
おや、と眉をあげた少年は温くなったガーゼを持ち上げる。――と、出てきたのは恥ずかしげな表情で、それでもがんばって寝入った振りをする姫君の紅潮した顔だった。
レインはガーゼをサイドテーブルに置くと、すばやく少女の冷えた瞼に口づけを落とす。
「ひゃっ……!」
「おはようございました、エルゥ? 人が悪いですよね、寝たふりなんて。いつから起きてらしたんです……?」
「え、えぇと……貴方に目を冷やしてもらって。敬語もなしで話し掛けられたときから、かな。びっくりしたの」
起きるに起きれなかった、ごめんね? と。寝台に身体を横たえながら小首を傾げるエウルナリアは、可憐の一言に尽きる。
少し顔を逸らしたレインは、自身の手で赤らんだ頬と緩みそうな口許をあわてて隠すと、ぼそっと呟いた。
「ころされそう……」
「? なに? レイン」
「何でもない。それよりエルゥ。ひょっとして……僕が敬語を取ると嬉しいの?」
気を取り直した少年は、肩の前に滑り落ちた栗色の髪を背に払いながら同学年の友人に対するように訊いた。
効果はてきめんで、少女は再び赤面する。
「う……嬉しいですよ?」
――なぜ、敬語。
しかし突っ込むのは勿体ない気がして、レインはちょっぴり意地悪そうに口の端を上げた。
じり、と大好きな姫君を見下ろしつつ、細い頤に手を掛ける。
「教えて? ディレイ王になんて言って脅されたの」
「!! どうして、知って……?! ち、違うの。ちょっと、あの人の言葉の信憑性を自分なりに調べなきゃって……」
――やっぱり。
にこっ、と。
少年はとてもいい笑顔になった。そのまま唇を合わせられるほど近くまで顔を寄せ、ぴたりと止まる。
「?~~~っ?? あの、近いですけど……!?」
(どうしよう。動転して従者相手に敬語になる主が可愛い)と、この場においては何ら関係のない考えが頭を掠めたが、レインは目的を重視した。断じて立場の逆転を楽しんだわけではない。
「そりゃ、わざと近くしてるから」
「……レイン、さっきも思ったけど色々手慣れてる……? なんで?」
う、と怯んだ少年は、若干灰色の目を細めて誤魔化した。
「エルゥは知らなくてもいいような色事を、喋りまくって盛り上がるのが男子寮の男どもなんだよ。おかげで知識が……―――じゃなくて。脅されたんだろ? あの王様に。さしづめ『自分からウィズルに来い。でないとアルトナに侵攻をかけてレガートも攻め落とす』とか」
「!!!」
「図星だね」
「ずるい……」
「狡くない。じゃ、対策練ってくるから」
すっかり敬語を取り払った従者は、涙目になった姫君に有無をいわさず深い口づけを送った。
「!……ッ~~!!」
そのまま唇を離すとにこり、と微笑み、火照ったすべらかな頬を撫でつつ口調を元に戻す。
「暫く、お休みくださいエルゥ。朝食を運んでもらいます。僕はこの件をアルム様と協議して参りますから」
「お……鬼従者!」
扉に向けて歩き出したレインの背に、負け惜しみに近い可愛らしい罵倒が浴びせられた。
ぴたり、と足を止める。
従者の顔に立ち戻った少年は寝台の主を振り返り、決然とした声音で自身の変わらぬ指針を述べた。
「どうとでも仰ってください。僕は、貴女を守れるなら手段は選びませんよ」




