36 姫君を思うものたち
ひやり、と大きな優しい手のひらが額に触れた。思わず目を閉じたエウルナリアは、ほう……と吐息する。レインとの一騒動はさておき、やはりまだ本調子ではないらしい。
アルムは案じるように眉をひそめつつ、レインが運んできた椅子に腰掛けた。そのまま娘の枕元に陣取る。
「まだ、熱があるね……安静にしてなさい。幸い今日は、私はどこにも行かない。できるだけ側にいるよ」
深くゆったりとした笑みを浮かべ、温かなまなざしを注ぐアルム。エウルナリアはぱち、と青い目を瞬いた。
「宜しいんですか……?」
「もちろん、きみが嫌でなければ。色々お喋りしようか。それとも、レインと二人きりのほうがいい?」
すぅっとやわらかく細められた暗緑色の瞳に、少々悪戯な光が踊る。
「いえ、あの……」
「――僕は先ほどお話させていただきましたので。今日は、どうぞアルム様がエルゥ様を独占なさってください。他の候補者にうろうろされるより余程いいです」
寝台の足元、やや離れて控えるレインが爽やかに口を挟んだ。おや、と少女は口をつぐむ。かれが父娘の会話にこんな形で加わるのはとても珍しい。
が、違和感にまごついたのはエウルナリアだけだった。アルムは口の端を上げたまま、レインの発言を咎めることもなく、娘の前髪の生え際あたりをやさしく撫でている。
「筆頭婚約者候補どのの許しも貰えたことだし。じゃあ、そうしよう。レイン、朝食までは私がエルゥに付いてる。フィーネ達を手伝っておいで」
「畏まりました、アルム様」
す、とうつくしい所作で従者の礼をとり、つややかな栗色の括り髪を一房翻らせ、レインは退室した。ぱたん、と静かに扉が閉まる。
「さて。どこから話そうか……」
思案げな瞳を、エウルナリアを通した誰かを見つめるようにゆるりと向けつつ、アルムは雨音よりも甘やかなテノールで、そっと語り始めた。
* * *
「姉上、手伝います」
「―――遅い。こっち、手を洗ったら配膳にかかって。お嬢様はお部屋でお召し上がりだと思うから、アルム様の分だけ」
「はい」
カチャ、コト、カタン! と。
厨房は忙しげに回っている。夏の休暇を先がけて取る使用人も少なくないため、今の時期は若干、人手が足りていない。
エウルナリアの乳母であるキリエですら普通にエプロンを付け、いそいそと調理に携わっていた。
配膳車に銀のトレーを乗せ、じゃがいもの冷ポタージュ、水菜とレタスのサラダ、鱒の香草焼きの皿を順に並べていく。付け合わせに人参と茸のグラッセを取り分け、最後に生のハーブを添えた。
分量は少ないが、彩りは綺麗だ。なお、アルムが着席後は焼きたてのパンを運び、食後に間に合うよう丁寧に珈琲を淹れる。
レインが手慣れた仕草で準備を終え、姉から離れようとしたところ―――「ちょっと?」と呼び止められた。「はい?」と振り返る。
珍しく言葉に迷っているらしいフィーネに、レインは眉をひそめた。
「何か?」
「いえ……私達は邸でのお姿しか存じ上げないので何ともいえないけど。……お嬢様、ものすごく参ってらっしゃるじゃない。学院や寮が理由じゃないのはわかってる。先日のご公務が原因でしょう?」
「おそらくは」
「癪だけど。貴方、きちんとお話を聞いて差し上げて。たぶん……まだ、何か隠しておいでだわ」
くるくると、白い布ナプキンを器用に白鳥の形に整えたフィーネは、それをそっとレインの配膳車に乗せた。
「頼んだわよ」
姉の瞳は、柔らかな色合いの小鹿色。
レインは父親譲りの温度のわかりにくい灰色の瞳で、しかし真摯に頷いた。
「もちろんです、姉上。隠し事に関しては、何となく予想がつきますから」
芽吹いた花が、健やかに陽を求めるように。
幼い頃からひたすら音楽を愛する気持ちのまま、真っ直ぐに成長したエウルナリアが“何か”を抱え、彼女自身でもある歌声を無意識に封じてしまった。
このことに邸中、胸を痛めていない者などいない。
父であるアルムは更に、のはずなのだが……
(しばらくアルム様にお任せしたほうが良いかもしれない。楽士伯家の歌い手として相通ずる経験の一つや二つ、あの方なら持っておいでだろうし)
なるべくゆっくりアルムを呼びに行こうと心に決め、レインは今度こそ厨房をあとにした。




