35 消えたもの、消えてないもの
息を吸う。息を吐く。
―――今までは考えるまでもなく、ただそれだけで滑らかに溢れていた生き生きとした旋律は、無音の壁を隔てたように出てこなかった。
窓の外は大風。
閉じられたカーテンの向こう、粒の荒い雨が不規則に硝子窓を打っている。
エウルナリアは何度かの試みのあと、力なく視線を膝の上に落とした。
まだ寝台の上である。すとん、とした簡易な寝巻きで無防備な姿を晒し、それでも取り繕う余裕を持てなかった。
「だめ。昨日とおなじ……何も出ない」
「エルゥ様」
さらり、と髪を撫でる感触がした。思わしげな表情のレインが寝台の端に腰かけ、上体をひねって恋人でもある主の少女を覗き込んでいる。
「……あまり、思い詰められませんよう。熱もありましたし、一過性のものですよ。あの日は雨のさ中のお勤めで、しかも相手はウィズル王でした。出来ることなら僕の付き添いも認めてほしかったです。国に」
涼しげな声にうっすら滲んだ怒りを感じ、エウルナリアは小さく頭を振った。黒髪がふるふる、と揺れる。
「仕方ないよ。あちらが、『案内は一人で』と最後まで譲らなかったもの……聞いたよ。今まで随分たくさんの要求を突っぱねたんでしょう? 私のことで。これ以上、陛下や殿下がたを困らせたくはないわ」
「それは、ウィズルの我儘であってレガートに非はないはずですが……ところで」
「?」
ぴたり、と髪を梳く手が止まった。はたと気づく。なされている行為はあの時のあの行為の前段階と同じ―――!
少女は慌てて従者から距離を取ろうとした。
が、紙一重で遅かった。
うなじに手を添えられたまま軽く肩を押され、ぼふん! と枕に頭を沈められる。灰色の瞳に宿る温度が少し下がり、きれいな眉が片方上がった。
――久々に見た。主を問い詰めるときの、手心を加えない、全く容赦のないレインだ。
エウルナリアは目を泳がせた。
「あ……あの……これ、は」
「ありがとうございます、僕が訊ねる前から白状してくださって。で? 『これ』は何です?」
「む」
「よもやまさか、虫に刺されたなんて使い古された逃げ口上は仰いませんよね? 誰に、と問うのも愚問ですが」
「……」
うちの従者さんはこういうとき、悉く台詞を被せて退路を絶つよね……とも口に出せず、エウルナリアは固まる。
レインは、つ……と、顔を背けた主の髪をかき分け、白いうなじを露にした。
流石に消えてるのでは? と思っていたが、反応からして希望的観測だったかと打ちのめされる。
「……けっこう、強く吸われたんですね。四日経ってるのにまだわかります」
「……」
「ユシッド殿下なら、こんなあからさまな痕跡は残さない。あの方ならもっと確実にこっそり。或いは目の前で堂々となさいます。そもそもどんな形であれ、貴女に瑕疵を付けるわけがない」
「……! ッ? え、ちょ、レイン?」
覆い被さる影が迫る。そもそも逃れようがない。エウルナリアは声を上擦らせた。
レインの整った顔は少女の青い目を一瞥することなく通過し、ゆっくりとむき出しの首筋に埋められる。温かく湿った感触に、「! ……っ」と、思わず息が漏れた。が、どうにも変な声まで出そうになり、自らの手で慌てて口を塞ぐ。
(何これ、なに……!! 変。あの人はこんな風には吸わなかった……!)
ぞくぞく、と未知の感覚に背を波打たせる少女に栗色の髪の従者はなおも追撃の手を緩めない。紅潮した白い肌をまじまじ眺めたあと、ふと唇を耳朶に寄せ―――軽く口づけたあと、止めに甘噛みをした。
「――ッ!」
「あんまり、お仕置きにもなってない気がしますけど……失礼。ちょっと暴走しました」
ふい、とふて腐れたような視線を残し、レインは居ずまいを正しながら寝台から離れた。座っていた箇所を一撫でし、シーツの皺を消すのも忘れない。「?? え……なに? いいいまの、何だったの……?」と、真っ赤になったエウルナリアが呟いたとき。
ココン!
……ガチャッ
「!!!」
ノックから扉がひらかれるまで、すごく間隔が短かった。心臓が跳ねた少女はとっさにシーツを胸元まで引き上げ、両手で握りしめる。顔はまだ熱い。髪も、たぶん乱れてる。
「お父様……」
「おはようエルゥ、加減はどう? キリエとフィーネから聞いたけど」
いつもよりラフな格好のアルムが、気遣わしげな笑みを浮かべて入り口に佇んでいた。隙なく涼しい顔で礼をとるレインにもちらり、と視線を流す。
「おはようレイン。御苦労様」
にこり、と。
笑っていない目許と微笑みの形の唇で、短く労った。




