34 嵐を前に※
前頁の33話があんまりだったので、7/27朝に加筆・改稿いたしました。よろしければご覧ください。
では、新章のさきがけとして。
短いですが、どうぞ。
「え? 声が……出ない?」
弱い朝陽が背中から差し入る、バード邸の執務室。壁一面の硝子窓をパラパラ……と、粒の大きな雨が打つ。
時折ごうっ! と風の鳴る音が響き、その都度雨足は強まった。
―――レガートの風物詩。本格的な夏を前に一帯を襲う激しい嵐の到来を告げる、はじまりの大風だ。
重厚な造りの焦げ茶色の執務机。そこに当主のアルムが座している。
今朝方、皇宮から戻った際に濡れた衣服は着替え、髪も簡単に拭いた。朝食まではあと少し時間がある。
『入浴なさいますか?』と家令のダーニクに問われたが、かれは断った。書類は山積しているし、風邪を引くほどでもない。
何より今日は、世間的には休息日。今年の春から寮住まいとなった愛娘と会える貴重な時間は、一分一秒でも確保しておきたい。
そんな内心はおくびにも出さず、アルムは一度大きく暗緑色の双眸をみひらき、ぱち、と瞬いた。
齢四十にしてなお、独特な艶を含む深いテノールが机上に零れ落ちる。
心配と驚愕。
いま、年齢より若く、甘く整った品のある容貌にくっきりと見てとれるのは、その二色だった。
「いつから? 確かにウィズル王の接待から戻ったあの子は、明らかに落ち込んでいたけど。御前報告も落ち着いてやってのけてたし、去り際も淑女然として見事なものだった。えぇと……四日前か。なぜ? 高熱?」
考えられるのは発熱によるもの。或いは―――心因性のなにか。
アルムは直感で後者と判じたが敢えて、報告をもたらした眼前の女性に尋ねる。予想を違えず、ふくよかな女性――キリエはゆるく頭を振った。
「いいえ、アルム様。確かにあのお勤めのあと、二日ほど発熱は見られましたが、勿体なくもアルユシッド殿下みずから診察にお越しくださいましたし。いただいた薬湯や粉薬で、容体はすぐ安定なさっておいででしたわ」
「じゃあ……昨日?」
こくり、と綺麗に後頭部の高い位置で結わえられた淡い金の髪が揺れる。
キリエの隣に立つ、紺色のメイド服をまとった背の高い女性が頷いた。キリエの娘、フィーネだ。
「はい。昨日は微熱がおありでしたが、『一日だけでも顔を出す』と仰って、朝から夕方までは学院に。……ですが、お帰りの際から顔色が優れず。大変しつこくお伺いしたら、ようやく教えてくださいましたわ。『どうしようフィーネ、歌えない』と」
「あぁ……」
さもありなん、とアルムは瞑目し、黒い皮張りの執務椅子の背に凭れた。
ぎ、と軋む音。
そのまま暫し腕を組み、口許に指を添えて熟考する。
ぴん、と張りつめた一線を引くかのような当主の沈黙を、机越しに佇むキリエとフィーネ、それに彼女らの夫であり父でもあるダーニクが静かに見守った。
ザァアアァァ……と、再び勢いの増した雨音が室内を満たす。
「わかった。エルゥは……いま、起きてる?」
再び椅子の軋む音。しかし軽やかな所作で当主は立ち上がった。
立ったまま机に左手をあて、軽く書類を押さえながらさらさら……と、ペンを走らせる。やがてコト、と傍らに置いた。
書き終えた書類は右側の書箱にひらり、と入れる。
「レインがいそうな気もするけど。ちょっと行ってくるよ。―――あぁ、先触れはいい」
とりあえず、娘の顔を見てから。
そう結論付けたアルムは、実に優雅な微笑を口許に湛え、堂々と恋人達の邪魔してくるよ、と一同に宣言した。




