33 楔(くさび)※
遠ざかる騎士達の気配。
軽く、気が遠くなりかけたが何とか踏みとどまった。
(話すだけって……言ったよね? いくらなんでもここ、劇場だよ!? レガートの!!)
内心はまだ、落ち着きからは程遠かったが、叫びたい衝動は収まった。
……騒ぎすぎても大事になる。これ以上、私事に国を巻き込みたくない。
ごくん、と唾を嚥下した拍子。
口を塞ぐ大きな手の感触におののきながら、喉が大きく上下した。
おそるおそる見上げると、当たり前のように視線が絡む。
長身のディレイは顔の位置が高い。それがゆっくりと近づき、エウルナリアの耳許でピタリと止まる。ほぼ吐息だけで、妙に優しく念押された。
「(声は、抑えて……できるな?)」
「~~~ッ!」
頬が勝手に熱くなる。
自分でも不可解なのだが、ディレイの声は至近距離で聴くと、なぜかくるしい。
胸の奥底を無造作に撫でられるような不穏さで、ざわりと心が騒ぐ。長時間聴くのはあまり良くない気がした。
視線で、わずかに頷く。
口許の戒めがようやく外された。
深く息を吸い、はぁぁ……とため息のように溢す。その音すら大きく聞こえるほどの静寂と薄暗闇だった。手摺の向こう、一階の舞台照明は見学のため、煌々と輝くばかりなのだが。
ふと、口から離れたディレイの手が動き、少女の頤に添えられた。
腰を支える腕から逃れるタイミングを見失っていたところへ、半ば伏せられた砂色の短い睫毛が、ごく自然な仕草で近づく。
(!!)
とっさに左手を出し、ぱしっと青年の口許を押さえた。セーフ。
「あの。お話だけと、仰いましたよね……?」
ふっと、茶色の目許が和む。
―――まただ。
このひとは、なぜか時々そんな視線を向けてくる。まるで、いとおしくて堪らないと言わんばかりに。
思い当たる節はない。そんなことは、絶対にないはずなのに。
ディレイは、焦る少女にお構い無しに、しれっと答えた。
「言ったな。そういえば」
「うっかりにも程がありますよね。……伺います。手短にどうぞ」
にや、と唇が歪んだ感触が手のひらに伝わる。思わず怯んだ隙に、防波堤をつとめていた手首をさっと奪われた。
「!」
「そうだな、時間もあまりないし。手短に済ませるのは賛成だ。既成事実でも作るか?」
「どうして、そうなるんです……? そもそも、先ほどの『本気』が貴方の単なる意地ではないと、どうして言えるんですか。
私、ちゃんと好きな人がいます。申し訳ありませんが、貴方の気まぐれには絶対お応えできませ、ん……ッ!!」
ひそひそと声は潜めていたが、怒濤の断り文句を叩き込んでいたはずだった。
が。―――すばやく唇の端に口づけられた。
乾いた、さらりとした武骨な唇がエウルナリアの柔らかなそれに時おり掠めるように動き、低いささやきで答えを紡ぐ。
「お前のことは、『本気』で欲しいと思っている。偽りなく、国ごと奪ってもいい。
何ならかつてのレガートのように、大陸ごと手に入れようか……? 戦は嫌いじゃない。
お前に想う相手がいるのは、なんとなくわかっていた。あの皇子ではないようだが……そいつに律儀に操を立てているらしいのも、な。婚約していない理由はよくわからんが」
「やっ! 離、し……!」
「まぁ聞け。……俺は、元は平民だ」
ふ、と唇を離したディレイの声色ががらりと変わった。
怖いほどの熱を孕んだ狂おしいものから、自身さえ冷たく突き放す、淡々としたそれへと。
その豹変に、エウルナリアは思わず翻弄される。
がっちりと捕らわれた腕の力には抗えない。反撃すらままならない。相変わらずの無力さに情けなさを痛感する。
それでも気力を振り絞り、目の前の青年を睨みつつ耳を傾けた。『話すこと』そのものには、意味があると思えたから。
大人しくなったエウルナリアを確認したディレイは、しずかだが感情の読めない瞳のまま、滔々と語り始める。
「ウィズルの内乱はな、最低だった。俺が十四のときから、てことにはなってるが。その前から、もうとっくに破綻してたんだ。
西ウィズルの前王……詳しくは知らんだろう? 知らん方がいい。ただの狂人だった。貧しさから売り払われた俺を偶然救い出し、養子にまでしてくれた引退間際の老将軍を―――無茶な命令に背いたからと言って打ち首にするような奴だ。
無論、この手で刺し殺した。ついでに腐りきってた王族全員。女も、子どもも」
「……え……」
「で、東ウィズルの王がまともだったか? といえば、質の悪い守銭奴で盗人だった。国庫はことごとく私有化されていたし、王族と一握りの貴族だけで湯水のように使い込んでいてな……そいつらも成り行きで滅ぼした。
いま、国が回ってるのは奴等から押収した財産あってこそだ。でも、そのうち尽きる―――わかるか? この意味が」
一息に。
一気に畳み掛けられた。
少女の背にいやな汗が伝う。熱いのか寒いのかわからない。最初に抱きすくめられたときとは違う種類の恐怖が、足元からじわりと這い上る。
「……遅かれ早かれ、……レガートの西の穀倉地帯のアルトナに……攻めいるつもりだったの……?」
蒼白なエウルナリアの震える声に。
感情の一切を読みとらせなかったディレイの視線に再び、危険な熱が隠もった。
「ある程度は、抑えてたか……やっぱり欲しいな、エウルナリア。俺が見てきたものとは無縁に育ったらしいお前が。
豊かさと潤いと、うつくしさと清らかさと―――まるで、レガートそのものだ。側にいると安らぐ。同じくらい滅茶苦茶にしてみたくもなるが……
考えが変わったら、晩秋に予定しているウィズルの建国祭の招待に応じるといい。お前さえ手に入るなら、俺はどこも攻め滅ぼさない。約束する」
ディレイは捕らえた華奢な手首を引き寄せ、内側の柔肌にそっと唇を当てると、どこか艶然と微笑んだ。
「べつに、来なくとも構わない。手間がかかる女も嫌いじゃない。迎えに行ってやる……多少、血は流れるだろうが」
「―――な……どう、して」
ぐらり、と視界が傾ぐ。
胸に倒れ込んできた少女の顔を上向かせたディレイは、じっ……とその青ざめた顔を見つめる。
なんとか気丈に振る舞おうと己を奮い立たせ、精一杯、力を込めたまなざしを返すエウルナリアに「―――……待っている」と。
青年は、最後にいとおしげに黒髪を梳き、露にしたうなじに口づけを落とした。
「い……痛っ!」
つよく吸われ、慣れない感覚につい、声が漏れる。
少女の白いすべらかな首のうしろ。
そこには、徴のような赤い痕が一つ、刻まれていた。




