3 露台の蝶
「ひどい、目にあったわ……」
遠く、楽士達のワルツが聞こえる露台にて。エウルナリアは避難している。
あのあと、アルムと難曲を踊りきって息の上がったところを、皇王マルセル陛下や東のどこそこの太守、北の白夜国の王弟殿下など――とにかく数えきれないほど踊った。もうくたくただ。
『顔を覚えてもらうのも、外交府特使の仕事の一つだからね。がんばって』
と、去り際のアルムが実にいい笑顔で述べた直後――怒り心頭のシュナーゼン皇子に引きずられていったのを、思い出す。
『歌長! 何してんのさ、自分ばっかり! 僕だってエルゥと踊りたいのに……っ!
ほらほら、弦や管はいいけど、打楽器は指揮がないとやりづらいんだよ!!』
―――と。
(それで、お父様の腕をひったくって連れてっちゃうんだから、シュナ様もすごいわ。いつの間にかスネアーに抜擢されてるし。
……いい音だったな。潔くて、きっぱりと澄んだ的確な音)
ダンスで火照った体の熱が、夜風に吹かれて少しずつひいてゆく。目を閉じて、外にせり出した露台の手摺にゆっくり凭れると、「ふふっ」とちいさく笑った。
目を開けると、眼下に広がるのは真っ黒なシルエットとなった木々の向こう、存在感を放つ大きな街に浮かぶ、数多かがやく小さな灯り。
蒼い夜闇に、あたたかな灯りを点す街、サングリード。レガート湖の北岸に位置するこの街は、その名の通りサングリード聖教会の総本部。この広大な迎賓館を含めた、聖教会本部舘を中心に、街は発達したという。
ちょうど、ここ――地上五階に位置する高みから見下ろすと、うっすらと光を点す街灯の形は蜘蛛の巣のようだ。
路は教会を中心に放射状に伸びており、それを繋ぐ横道が不規則に張り巡らされている。
一応、湖はすべてレガート皇国領となっているから、建前としてこの地は白夜国のサングリード自治区という体裁を整えている。
実際は税金も免除されているし、事実上の独立都市なのだが……
ひととおり、ぼうっとして落ち着いたエウルナリアは、夜風を急につめたく感じて、ぶるっと肩を震わせた。さすが、白雪山脈の麓の街。春とはいえ、冷え過ぎたかもしれない。
「そろそろ、戻ろうかな……こういう場所に一人で行くんじゃないって、注意されたし」
「――そうですね。令嬢がひとりで、こんな夜の露台にいては『浚ってもいいですよ』と解釈されても、おかしくない」
「……え?」
慌てて後ろを振り返ると、ホールから零れる光を背に受けて佇む一人の青年と目があった。
茶色の瞳、砂色の長い髪、黒い軍服のような礼装――素っ気なく飾り気のない、夜の荒野のような色彩。しかし抜き身の刃のような容貌と雰囲気に、危うくエウルナリアは呑まれそうになった。
(こわい……このひと、何かちがう。会ったことのない人だ)
カッ、カッ……と、静かに靴を鳴らし、砂色の青年が近づく。暗がりでも互いの顔がよく見える位置に来てようやく、立ち止まった。その距離、わずか一歩。
見上げるほどの上背は、先ほど一緒に踊ったジュードを思わせた。
貴公子というより、将軍。美形ではないが、整った顔立ちで目許が鋭い。むだのない筋肉を纏って俊敏そうな体躯。隙のない物腰――エウルナリアが単なる一兵卒なら、戦場では出会いたくない類いの男性だ。
男性はまじまじと、ホールからの明かりを受けて露台の闇に浮かび上がるように佇む、瑞々しい美姫を眺めていた……が。
ふ、と眼差しを和らげると徐に、手にした飲み物のグラスを差し出した。
「?」と、エウルナリアは呆気にとられる。
「どうぞ。喉が渇いてもおかしくないほど、捕まっていたでしょう? 蝶々の姫」
「ちょう、ちょ……」
言われた言葉を繰り返して、少女はようやく今日のドレスの背中を思い出した。――なるほど。
思わず笑みを浮かべそうになるが、まだ早い。油断はできないと本能が告げている。
「お気遣い、とっても有り難いのですが。
“知らない人から安易に飲み物を受け取ってはならない”と、言い含められていますの……家訓として」
できるだけ一筋縄ではいかない女性を装う。ましてや、怖がっていることを悟られるわけにいかない。
エウルナリアの精一杯の虚勢にしかし、砂色の男性は「ふっ……は、アハハハッ!」と、快活に笑った。笑い飛ばした、とさえ言える。
笑い声が胃の腑に直接響く。声の芯が、おそろしく通っている。胸に、どきどきと不安を呼び起こさせる類いの声質だ。……声の良し悪しや理屈ではなく、感性の相性だと少女は理解している。
やがて、笑いの衝動を収めた男性は少女にゆるりと向き直った。
片方の端だけ上げた唇がひらいて、先ほどまでとは違う口調の台詞が溢れる。
「――では、知ればいいんだな? 俺は、ディレイ。ウィズルを束ねる者だ」
「!」
声には、どこか面白がるような不穏な色がある。態度もがらりと変わった。
(ウィズル。西の、あたらしい王だ……この人)
緊張に渇いた喉で、エウルナリアは無理やり唾を、ごくっと嚥下した。




