242 黒衣の王と
日暮れ。今しも沈みゆく、冬雲の向こう側にこぼれる陽の色。
ほとんど夜と大差ない暗がりを目前に、背後からは藍色の闇が深まるなか。西港ではあかあかと篝火が焚かれていた。
湖を渡る者にとって、沈む太陽よりも確かな手がかりとなれるよう。数えきれぬほど幾つも。
昼間、危惧した通りの天気になった。
雪だ。
ちらちらと視界を、灯りに照らされた雪片が舞う。
はらり。
はら、はらり。
風は、さほどない。
鷹使い詰所からの連絡では、ウィズルの船は既に対岸の街を発ったという。
ただ、この天候と黄昏時――昼と夜の境があやふやな中にあっては、予定通りの到着は不可能と見なされた。他の船との接触事故も、普通に危ぶまれる。
(ディレイ、大丈夫かな……。濃霧に囲まれてなきゃいいんだけど)
案ずる気持ちと、若干の緊張。
エウルナリアは手袋に包まれた両手を椀の形にして口許に寄せた。はぁぁ……と、息を吐くと顔周りが温まる。冷えきった鼻先は、あらためて氷のように感じた。すると。
「――エルゥ、こちらをどうぞ。温まりますよ」
「! わっ……。ごめんね。ありがとう」
振り返ると、両手に木のコップを一つずつ持ったレインがいた。美味しそうに挽かれた豆の匂い。湯気が立っている。
同時に、どきっと心臓が跳ねた。
まだ、かれから『エルゥ』と呼ばれることに慣れていない。――人前ではいつも敬称だったので。
照れ隠しに目を伏せつつ、エウルナリアはちょっぴりはにかみ、淹れたての珈琲を受け取った。
* * *
冬季においてレガートの港では、船を利用する者が凍えたりせぬよう、特設天幕が多く建ち並ぶ。ちょっとした飲み物を提供する臨時店舗だったり、暖をとる目的の貸し店舗だったり。色も形もさまざまだ。
夜間、カンテラに照らされた色とりどりの天幕群は幻想的でもあった。
実は、外交府からも天幕を一つ貸し受けているのだが、何となくじっとして居られなかった。
『ちょっと見てくる』と、外に出た自分をあえて止めたりせず、あとから飲み物を差し入れてくれるあたり、かれの、長く付き従ってくれた気遣いと年季の深さを知る。
「エルゥ」
「ん?」
官吏や護衛の騎士らは、一定の距離を空けて周囲を固めてくれていた。そんななか、互いにしか聞き取れない囁き声で、ふと呼びかけられる。
「ディレイ王への挨拶は、最初に僕からさせていただいても宜しいですか?」
「……」
パチンッ、と、近くでくべられた焚き火の薪がはぜた。
照らされる頬に、自分と似通う緊張と気負いがある。灰色の瞳には澄んだ光。真摯さとも呼べるものを認めて、エウルナリアは、こくん、と頷いた。
「うん。いいよ」
癖で、微笑みながら小首を傾げてしまう。
ほっとした空気を湛えるレインの表情に、自分もまた安らぎを覚えた。前よりも、感情の連鎖が深まっている。
夫婦、という実感はまだあまりない。
けれど少しずつ。少しずつ、こうして言葉にしながら、互いの『ちょうどいい』を確かめ合えれば――と、願う。打ち消すのではない。補い、認め合えるように。
ディレイは、おそらく二人ともにとって、特別な相手だから。
――――その時。
「見えました! ウィズルの船です!」
「来たか……!」
「よかった、何かあったかと」
「誰か。御者に報せを」
「迎賓館にも先触れを」
一斉に安堵の声や指示を飛ばし始めたレガートの官吏らに、エウルナリアもまた、ぴん、と背筋を正した。いよいよだ。
(今回の、真の招集者。最重要人物……って、だけじゃなく。色々とあったものね)
僅か一ヶ月や二ヶ月前の出来事なのに、ずいぶんと自分のなかで大きな比重を占めている。
同じく沖合いを見つめる、レインの横顔に視線を移す。
きっと。
かれも同じなのだろうと感じた。
* * *
「久しいな。エウルナリア。それに従者の」
たたん、と、軽快な靴音を木の桟橋で響かせ、そのひとは船から降り立った。
均整のとれた長身がまとうのは、やはり黒衣。重たげでつややかな毛皮のマントにも覚えがある。花祭りの夜、『寒いから』とくるまれた――あの感触も、温もりも。やり取りした一言一句も忘れようがないので。
エウルナリアは約束通り、しずかに淑女そのものの礼をとった。隣ではレインが紳士の礼をとり、凛と口上を述べる。
「ようこそレガティアへ。ご無事のお越しをお慶び申し上げます、ウィズル国王ディレイ陛下」
「――あぁ」
ぴたり、と、目前で長靴の爪先が止まった。思案げな視線が自分達の間に交互に向けられる。「なるほど」と、徐に呟かれた。妙に脱力した顔だった。
「なんだ。……本当にあの時、帰すべきじゃなかったな。いくらなんでも早すぎだろう。式も?」
「はい。急でしたが。歌長の意向や、今上皇王陛下にも快くお許しをいただけましたので」
――――僕は以後、一楽士としてだけではなく、エウルナリア・バードの伴侶として。レガートの国意も担いつつ彼女を助け、支えてゆく所存です、と。
はっきりと、殊更の敵意も他意も込めず。
レインは『それ』が不可避の神聖な誓いであるように、雪のなか、ディレイと相対していた。




