237 光る、雨音(あまおと)のように
「エルゥ、こっち」
アルユシッドは表情を改め、ぱっと身を翻した。すっかり“司祭”の顔だ。
案内されたのは、小部屋にあったもう一つの扉だった。ひらくと音が更に鮮明に響く。
探るように視線を添わせると、十数メートル先の突き当たりは左に折れる階段になっていた。
細い通路だ。
腰から下が膨らんだドレスをまとうエウルナリアは、裾をたくし寄せて進まねばならない。
眉をひそめた皇子は、申し訳なさそうに振り向いた。
「ごめんね、ここのほうが近いんだ。音源の真上に出られる」
「……はい!」
階段へと差し掛かる部分で、アルユシッドは足を止めて待っていた。絡まる裾を両手にもたげ、急ぎ駆け寄る。
『音源』。つまり礼拝堂。
講壇の奥にはピアノが一台置いてある。音はそれに違いなかった。
はじめ、空気を切り裂くように響いた打音は、今は緩やかに流れている。
階段を降りながら、エウルナリアは礼拝堂の構造を逐一、思い出していた。
――――――――
天井は高く細く、アーチ型に弧を描く上部までの吹き抜けとなっている。千年前の名工の技が余すことなく発揮され、静かな美の結晶を湛えている。壁には周囲の木々が映る幾何学模様の磨り硝子。最奥、縦に長く伸びた見事なステンドグラスも。
――学院入学前。
十四歳の春に一度だけ『ここ』で歌った。恩師の結婚式のためだった。
だからわかる。とても、よく響くのだ。
音が祈りのように飽和して天へと吸い込まれる感覚。おごそかな、染み入るような反響率を。
おそらくは奏者も気づいた。だから弾き方を、がらりと変えたのだろう。
(もう……レインってば、レインってば!! 相変わらずこういう時は“びっくり箱”なんだから。なんで、私達を探しに来てピアノ弾いちゃうかな……?)
さんざん首を捻りたくなる。内心、叫び倒す。
駆けまろぶように、ジグザグに折れる幅の狭い階段を降りた。徐々に近くなる。眼下で、ぼそっとアルユシッドが呟いた。
「この音……。かれ、帰国後はみっちり弾いてたみたいだね。馬鹿なの? あれほど『無理に弾くな』と言ったのに」
沈痛なため息。珍しく不機嫌そのものの声音に、エウルナリアは思わず吹き出した。
「ふっ……! え、えぇ。かれは、そういう意味では全く言うことを聞いてくれません」
「困った従者だよね。――……っと、到着。大丈夫? 開けるよエルゥ」
降りきった場所には、舞台の緞帳のような厚手のカーテンが垂れている。重たげなそれを、皇子は手で押し開けてくれた。
ありがとうございます、と囁くように述べて潜り、一歩踏み出す。
ざっと見たところ、二十人ほどが座れるだろうか。小じんまりとしたバルコニー席だった。
聖歌隊が歌うために設けられた唱歌席だ。ほぼ、その真下で。
ステンドグラス越しの柔らかな光を浴びて、淡く輝くようにレインがピアノを鳴らしていた。
* * *
(これ。……この音。……すごい)
胸が、しめつけられる音だった。
切なくて叙情的。以前のかれと違う。
跳ねるような、きらきらと水面に遊ぶ光とは明らかに違った。
まだ背の傷が治りきっていないせいもあるだろう。一音一音をつよく打ち出せない代わりに、鍵を沈める動作がとても丁寧。ゆったりとしたテンポ。
残響も考慮しての強弱。優しい、降り注ぐ慈雨を思わせるメロディーだった。
(…………、っ……?!)
耐えきれず、胸を押さえる。
なぜだろう。勝手に、どきどきする。
今、かれが奏でるこの音を全身で聴けるのが嬉しい。抑えきれない。
今までの何もかも、これからの何もかもをすべて打ち消し、埋没させてくれる得難い一瞬。空間だった。
心のなかに降り積もる、あまい光の粒が。
手心なく、耳から浸透して魂を震わせる音の奔流が。
やまない、かれへの想いと幾重にもかさなり、同調する。増幅して止まらない。
「――――」
言葉に、ならない。
呼べるはずがない。
涙が止まらなくて――演奏を終えたかれに、周囲に偶然居合わせた人々が惜しみなく拍手をくれる、その時まで。
「…………エルゥ、終わったよ」
隣に立つアルユシッドが肩を抱き、そっと囁きかけてくれるまで。
エウルナリアは立ち尽くし、頬を伝う雫を拭うことも忘れて、泣き続けていた。




