236 細い塔の上で
絶対、ここのはず。
(アルユシッド様の根城と言えば、サングリード聖教会。ここしかないだろ……!)
勇み足でバード家所有の馬車から降り立ったレインは真っ直ぐ、まずは礼拝堂へと向かった。
――いっぽう。件の司祭と令嬢の間にはひと悶着起きていた。
「わけが、わかりません……!」
「どうして? この上なく私は素直に話しているのに」
ブルブルっ、と幼子のように首を横に振ったエウルナリアは、アルユシッドの膝の上で激昂した。
「お話は、いいんです。ここが、ユシッド様が司祭候補だった頃過ごされたお部屋で、今もほぼ私室なのはわかりました。この体勢が問題だらけなんです……!!」
「あぁ」
何だそんなこと、と言わんばかりにきょとん、と皇子は目を瞬いた。
(わかってくれた)と安堵したのも束の間、今度は両手首を拘束された状態でやんわりと押し倒されてしまう。――長椅子に。
呆然と、エウルナリアは呟いた。
「殿下。さっき『悪いことはしない』って」
「言ったね。でも……どうかな? 本当の『悪人』なら平気で嘘を吐くよ。ね、エルゥ」
「…………うっ」
ぎり、と、少しだけ手首を握る力が強められる。それだけで僅かに声がもれた。
皇子は苦笑する。
「……参ったね。嫌になるほど、ディレイ殿の気持ちがよくわかる」
「!」
ぎょっとした。
(あれ? ユシッド様は、私がウィラークで危ない目に遭ってたのは……知らないはずよね??)
『危ない』のは、今も。
客観的に見れば、礼拝堂脇の塔の最上階の小部屋でこの状態。余人はいない。
未婚の、貴族家の若い男女ではあり得ない接触に至っている。
救い(?)は、相手が話せばわかってくれそうな『アルユシッド』であること。
現に、転がされたのは自分だけ。かれは普通に掛けている。上体を捻って片手ずつ手首を掴んでいるのに過ぎない。
……
…………
(やっぱり、良くはないな……)
考えが漸くそこに行き着いた頃、見透かしたように至近距離で涼やかな声が降ってきた。
「どう? エルゥ。わりといつも危ないんだって自覚、できた?」
「そう……かもしれませんね。すみません、よくわかりました」
「よし」
にこり、と細められた柘榴石色の瞳に、瞬間、見たことのない光が浮かんだ。強いていうならば、理性と衝動のせめぎ合いのような。
殿下……? と、ちいさく呼ぶと片方の腕を外され、両目の上に被せられた。
「?? …………ッ!」
ゆっくりとなにか、唇に重ねられる感触。
視界と息を奪われながらも、ひどく混乱する。身を捩り、辛うじて空いた右腕でアルユシッドの肩の辺りを押しやった。
「や、め……、殿下!」
「うん。わかってる。――はい、どうぞ」
あっさりと返事。離れる気配。
視界が晴れて目を白黒させている間に手を引かれ、身体を起こされた。
「……あの?」
まだよく付いていけてない。どき、どきとしつつ目線で問うと、困ったように微笑まれた。
やさしい手が髪を撫で、絡まりを指で梳き解している。乱れたところを直してくれているのだと、数度瞬きする間に気がついた。
「きみが」
「はい?」
髪からも手を離され、覗き込まれた。
「……何を、どうしても心を変えないのは分かってた。でも、私だって足掻いてみたかったんだ」
「で」
殿下、と口にしそうになって躊躇した。いま。このひとは――
ごく、と唾を飲む。告げなければならない、心を乗せた本当の言葉がもたらす痛みを思って、身がすくんだ。
「…………ごめんなさい。ユシッド様。わたし」
「いいよ。言わないで」
そっと、今度は人差し指で唇を押さえられてしまう。皇子はほろ苦く笑んだ。
「もう、充分痛いし。でも甘んじようと思う。レインが今度、とち狂ったらいつでもおいで。――立場の違いってやつを、分からせてあげるから」
「ユシッド様。それ、何だか怖いです」
冗談めかして語られる軽口に、つい顔がほころぶ。
緊張が解けたらしい姫君に、やれやれとアルユシッドも眉尻を下げた。どことなく“降参”という気配が滲む。
立ち上がり、スッと手を差し出した。
「知らなかった? 私は結構、怖いよ。
……そろそろ行こうか。きみの最愛の奴を待つなら礼拝堂がいいよね。もう来てるかも……」
――――!
その時。
エウルナリアとアルユシッドは、両方同時に目をみひらき、耳を澄ませた。
聴き違うはずもない、音が届いた。




