229 牙城崩壊
(勘 弁 し て く だ さ い ……!!)
レインは、胸中で叫んでいた。
文字通り突っ伏している。寝台で寝具を被っていた。被らざるを得なかった。
主の少女が訪れた時、背中を庇いながらのレッスンでくたびれてしまい、休んでいたのは事実だ。だから、彼女達の会話は途中から聞こえていた。
――寂しいけど。すごく寂しいけど我慢する
(すみません、僕もです)
――貴方でなければ、つらいかな
(どうして、そんなに可愛いことを可愛い声で言うんですか。殺す気ですか)
…………。
しぬ。
絶望的に死んでしまう。せっかくの機会だから、とも述べられた気がする。頭から湯気が出そうだ。
せっかく? つまり、白紙というか保留状態を作るからゆっくり考えろ、と???
「あり得ない……」
顔ごと枕に突っ込んでいる。当然、声もくぐもっている。誰に聞かせるわけでもない、自分の心があふれただけのことだった。
――――……好きです。
もちろん、従者としても独奏者としても貴女の専属ピアニストとしても、譲る気など毛頭ありません。ただ。
「婚約、者……」
ずっと、その先の「彼女の夫」になるべく努力していた。とにかく異性として、候補として見てもらえるようにと。でも。
――――本当に貴女はそれでいいんですか? と、問い詰めたかった。泣かれても、なじられても本意を洗い出すまで、徹底的に。
勢い余って違う意味で泣かせてしまったらどうしよう。そんな馬鹿な妄想にまで苦しめられる。
彼女を。
(僕だけのエルゥ様にしたい。当たり前だ……!)
応えたかった。安心させたかったのに、喉の奥で凝り固まった感情が氷塊みたいにつかえて。
――……声を出せなかった。挙げ句、あんなに悲しませて。
一体、何をどうすれば彼女の幸せになるのか。皆目見当もつかなくなっていた。従者歴七年七ヶ月。こんなのは初めてだった。
その時。
「どうしよ…………、っ!?」
カチャリ。
突拍子もなく解錠の音が聞こえて、わらわらと人が複数雪崩れ込む気配がした。「レイン。起きてるな?」
聞き慣れた涼しい声に、レインは思わず寝具をはね除けた。急な動きで背中が引きつれたように痛んだが、眉をひそめるだけに止める。無視した。
「……父上。それ、マスターキーですか」
「そうだな。アルム様不在の折は、屋敷内のことは全権委ねられている」
アルム・バード楽士伯の乳兄弟なので、同年――そろそろ四十二歳のはずだが、年をとることをどこかに置き忘れたような歌長とは逆に、順調な年輪を重ねている父、ジオルド・ダーニクの姿があった。
すらりとした痩身。表情の読み取りにくい灰色の切れ長の瞳。めったに笑わない口許には、まだ髭はない。(※キリエからの厳重なお達しらしい)
栗色の髪は短く、すっきりと後ろに流している。長年、屋敷を守った家令の鑑と、当主だけでなく使用人達からの信も篤い。レインにとってもある意味、キリエやアルム以上にその背を見上げる存在だった。
「何でしょう。この……空気。何が始まるんです?」
「『空気』。そうか、それくらいは分かるか。良かった――安心したよ。よし、皆」
パチン! と、指が鳴らされる。
マスターキーを懐に仕舞ったダーニクは、鳴らした指で息子を素っ気なく指し示した。
「かかってくれ。腑抜けて、緩みきってるから手加減はいらない。立場というものを思い出させてやってほしい」
「はい、直ちに!」
「お任せを」
「聞いたわよレイン……、信じられない!! お嬢様にあんなお顔をさせるなんて。この際だから思う存分ひんむいてやるわ!!!」
「えっ!! ええぇぇ……っ!???」
ずらり、と並んだのは見知った辣腕のメイド達。一人だけ、淡々と応じたのは実姉のフィーネだった。
三人めの発言にはさすがに、反射で身の危険を感じたが。
ハサミと櫛を持つもの。
巻き尺を構えた姉。
両脇に衣装箱を抱えた猛者。
――とりあえず、エウルナリア様の側仕えとして恥ずかしくない見映えにしてくれ。性根はあとで、私が叩き直す。
と。
流れるように、開いたままの出入り口に向けて踵を返す。
バード邸の家令ダーニクは、いかにも仕事の一環とばかりの然り気なさで「レイン。終わったら私の部屋まで来るように。夜になっても構わない」――と、言い置いた。




