226 こじれた棘
『レイン。きみは……――』
ふいに脳裡に蘇り、やわらかく響くテノール。
あの日。
大切な少女の父が持つたぐい稀な美声に、思わず聞き入っていた。
内容は、とても残酷だったのに。
* * *
午後四時。
微妙な空気のまま、グランには結局帰ってもらった。
かれ自身、明日からは本格的に復学の身だ。正騎士となるため、異例の早さとはいえ五ヶ月間を要した。万年欠席皇子のシュナーゼンほどではないにしても、単位の取りこぼしや再履修はそれなりにある。
庭に面した窓に手をつき、眼下を見下ろすと、ぱっと目を引く赤髪の青年が玄関を出たところだった。
グランは一度もこちらを振り向かず、木立に埋もれた庭の径へと姿を消した。
(……雨、降らなきゃいいんだけど)
空模様のせいか、今日は特に日没を早く感じる。吐息で硝子を曇らせたレインは、つ、と窓際から離れた。
「よっ……と」
ゆっくりと椅子に腰かける。
無意識に、傷が痛まぬよう背を庇う癖がついた。かけ声もその一つ。急な動作は、とにかく控える。
ピアノに備え付けてある背もたれのない長方形の椅子は、高さや位置の調整は全く必要なかった。さっきまで存分に使わせてもらっていたからだ。
母はまだ戻っていない。好きに弾くチャンスだった。
キィイ……と軋みをあげて、グランドピアノの蓋を開ける。整然と並ぶ白と黒の配置の妙に、あらためて溜め息をついた。――理屈じゃない。安心感すら覚える。触りたいし、かき鳴らしたい。
「……なにか弾けるかな。練習曲じゃないやつ。もっと……」
今の自分でも弾けるものを。
母の鬼特訓のおかげで、無理をしても治りが遅くなるだけだと本能でわかった。「ひょっとしたら」は無い。皆無。
身をもって知った怪我の回復期の経過は、いやになるほどアルユシッド皇子の見立て通りだった。
ポーンンン……
指を沈ませると、確かな手応え。
部屋に広がり耳を打つ、鍵と弦の音。
A。
多種の楽器で合奏する際は、必ず用いられるチューニング音だ。それぞれの楽譜に落とすと、表記は異なるけれど。
源泉の音。
洪水のような音楽が生まれるための、元となる場所の鍵だとレインは認識している。
(うん。いける)
そこからは即興で弾いた。浮かぶのは夜の雨垂れのイメージ。しずかな雨雲の海を、地上からは見えない満月が煌々と照らす姿を想像する。
届かなくても、そこにある光。
うっすらと目を閉じる。
閉じつつ思う。
アルムの言葉の意味。真意。とらえるべきこと、出さねばならない――答え。
(僕は)
ぎゅっと瞼を閉じて、左手から右手にかけて広く音階を刻んだ。
気持ちをたぎらせるように。消えそうな火を焚きつけるように。
記憶はたやすく辿り、あの日の夕闇に飛んだ。
芳香と楽の音に満ちた、異国の花祭りへと。
――――――――
寝台に、祈るように手を組み、真摯に語るアルムがいた。つややかな黒髪はエウルナリアと同じ。まなざしは葉陰の緑。
『……きみは、あらゆる意味でエルゥを助けてくれた。二つとない大切な命と体を張って七年間。ずっと。
十歳の頃からあの子が満たされていたのは、側にいたのが『きみ』だからだよ。きみでなければ、あの子は、今のあの子じゃなかったろう。それくらいに』
『そ……』
ごくっと、レインの喉が隆起した。かなり大それたことを言われた気がした。
『それは、過分なお言葉です。あの方は』
『聞いて。謙遜はいらない。事実だし、きみの稀有さでもある。美点なんだ』
『は』
こうまで言われては、黙るより外なかった。
アルムはしばし、真剣な表情で息を止めていたが、やがて躊躇いを切り捨てるように囁いた。
『きみは…………もし、エルゥが長く生きられないとしたらどうする?』
『えっ』
素で訊き返してしまった。
待って。考えが追いつかない。
長く生きられない?
『すまない、急に。……しかも、確実なことは言えない。彼女の母――ユナが短命な一族のひとだったんだ。その、純血に近い最後の一人で』
――――“ユナ”。
それは、あのロケットペンダントの小さな肖像画に描かれた女性だ。薔薇色の髪、エウルナリアと同じ深青の瞳の。
固まるレインを余所に、アルムは構わず話を続けた。
『古来、“湖の民”と呼ばれたらしい。初代皇帝が軍を率いて入植するより以前に、レガート島で暮らしていた民だよ。
暁色の髪に青い瞳。夢のようにうつくしく、音楽と歌に秀でた人達だったという。エルゥは髪こそ黒いけど、ほかは、特徴をよく継いでいる。……ユナもそうだった』
『! 待って。待ってください、それは……アルム様は、僕にそういう意味で、エルゥ様の夫になるための覚悟を問われているのですか? 今。――――短い、とは一体どれくらいを指すのでしょう』
ずきん、ずきんと心臓だか腹の底が痛みを訴えた。投げつけられた事実を受け止めきれない。が、黙り込むわけにもいかない。
『ユナは二十四でエルゥを産んで、その年の暮れに』
『!!』
『……だが、彼女の父母はもう少し長く生きたという』
淡々と話すアルムの顔は静かで、これが過ぎてしまった過去の出来事なのだと知れる。そこで、かろうじて冷静になる。
『そう……でしたか。だからアルム様は、エルゥ様の伴侶に皇国楽士として頭角をあらわせるものを、と、お考えになったんですね?』
『あぁ。でもこの頃――あの子を見ていると、ただ幸せに。思うように生きて欲しくもなる。“親の闇”だね。
あの子が歌を愛しているのは知っている。でも、それは私がそう仕向けたからだ』
『アルム様』
ほろ苦く自重の笑みを浮かべる歌長を、レインは見つめた。アルムは緩く頭を振る。
『考えるんだ。ときどき。……相愛のものと結ばれれば、人生はそれだけで豊かになる。長さは関係ないと、あのひとが言っていたことの意味を』
『……』
『きみに教えたのは…………すまない。フェアじゃないと気づいたからだ。ダーニクやキリエに、きみを娘の従者にと願ったときから暗黙の了解のつもりでいた。それでは足りなかったのに』
『なぜです。なぜ、今?』
フェア、という言葉が気になった。
そっと伺う少年に、アルムは観念したように瞑目した。
『エルゥはディレイ王に、自分を諦めさせるために、そのことを伝えたようだ。切り札として授けたのは私なんだが。
“それでも貰い受けたい。あいつさえ望んでくれるなら。生の長さも世継ぎの優劣も関係ない”と、ここに着いたとき言われてね。……かなり驚いた』
国が絡めば、また違う選択肢を突きつけられているはずなんだが――と、こぼす声は遠かった。
――――――――
(僕には仰らず。ディレイ王には)
エウルナリア自身、伝えるタイミングが無かったのかもしれない。それでも。
その一点が胸の奥深くに刺さり、撫でるようにピアノを奏でながら、ずっと痛い。




