225 回らない指、恋しい唇
「グラン、今日は学院には?」
とん、とん、とゆっくり階を降りる。背中だけ見ると、姉弟だな……と思う程度には、眼下のレインとフィーネは印象が似通っていた。
何気ない問い。
レインは、何がなんでも自力で客人を案内するつもりらしい。痛いくせに。
グランは面倒くさそうに答えた。
「行ってない。俺は、今日は近衛府に報告してきたんだよ。一応、騎士としての随伴だったから」
「最終的にはソロ、吹いてましたけどね」
「うっせえよ」
「すごいですね、もうソロを? 外国で?」
「えぇ。成りゆきでしたが」
先に一階にたどり着いたフィーネが、輝くような笑顔で弟の親友を見上げる。掛け値なしの称賛と祝福が透けて見えた。
「予定になかった独奏なら、もっと素晴らしいわ。やり遂げたんでしょう? 楽士としても」
「褒めすぎッス……」
まじ勘弁、と言いたげに、わざわざ不機嫌そうな顔で目を逸らすグランに、くすくすと笑いながら二名と一名はサロンに到着した。
「グラン様。暖まるまで少々お待ちを。レインはお湯を沸かして」
年長の中堅メイドらしく、フィーネはあくまで穏やかに振る舞う。みるみるうちに暖炉に火を入れ、てきぱきと部屋を整えていった。
* * *
『では、母は気にせず。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいね』
洗練された礼をとり、淑女の見本のような微笑みを残して、フィーネは扉の向こうへと去ってしまった。
目の前の丸テーブルには湯気をあげる温かな紅茶。四角いプレートに、カカオのマカロンが見目よく並んでいる。
――……男、二人で茶会。
少し滑稽かな、と瞳を和ませつつ、「いただきます」と、グランは卓上に手を伸ばした。
レインの淹れる紅茶は昔から美味い。安心安定の従者ぶりだった。
「で? どうだった。弾いた感じ」
「全くだめです。話になりません……一周回って、かえって笑えてくるほど。指がてんで回らないんです。
ずぅっと寝てたせいか、筋力と体力の低下もひどくて。思う音は、絶望的に出せませんでした。それで、母にも良いように言われまして」
「あぁ」
――あの、満面の笑顔で抉るように指導の手を緩めない。鬼教官の怒りのオーラが目に浮かぶようだった。間違いない。
つい、同情の笑みが浮かぶ。
「……たしかに。ちょっと聴こえたけど、いつもの『太さ』って言うか。ミスタッチは仕方ないにしても、鳴りきってなかったよな。
でもさ、俺はキリエさんのスパルタもどうかと思うよ。背中斬られて、何ヵ月も演奏してなけりゃ誰だってそうなる。
――……トランペットだって、しばらく吹いてないと恋しくなるんだ。唇とか。吹きすぎるとバテちまって、それはそれで狙った音を外したり………………って、おい! そんなこたぁ、今はいいんだよ。それより!!」
ハッ、と何かに気づいたグランは、勢いよくカップを受け皿に戻した。やや前に乗り出し、右肘をテーブルにつく。
忘れそうになっていた本題を突きつけなければ、と、意図せず詰問口調になった。
「お前さ、なんでエルゥを諦めようとしてんの? わけ、わかんねぇ……!!」
「グラン」
「いいから聞かせろよ。あの夜、宴のときだよな。お前の態度が豹変したの。マリオさんから言質は取ってる。アルム様になんか言われたんだろう?」
「……エルゥ様は」
灰色の瞳がもの思わしげに揺れ、視線が紅茶とマカロンのちょうど中間あたりに落ちた。
グランは腕を組み、いらいらと背もたれに寄りかかる。
「知らねぇよ。俺が今日、お前を見舞いに来たのは独断だ。俺の勝手だから」
――だから、言えよ。
口にしなかった誘い水を、まなざしだけで促す。エウルナリアのように。
案の定、レインは根負けしたようにぽつり、ぽつりとこぼし始めた。
「僕は……今まで、あの方の心に添いたい一心でした。従者としても男としても、音楽の共演者としても。あの方に釣り合えるようにと。でも」
ぐっ、と。
カップの取っ手を握る指に力が込められた。
一口も飲んでいない。菓子は言わずもがな。
とても言いにくそうに引き結ばれた唇がひらくのを、グランは根気強く待った。
やがて、一言。
「エルゥ様の……本当の意味でのお幸せは。望むべき伴侶は僕ではないのかも、と。
――あの方の生まれも境遇も何もかも関係なく。純粋に“一人の女性”として自由にして差し上げるには、僕ではだめなんじゃないかと。そう、思ってしまったんです」
ぽつん、と。
雫が波紋を広げるように。
男二人のサロンに、何とも言えない沈黙が降り立った。




