223 学院の朝、皇宮の夕べ(後)
アルム・バード楽士伯――父は、十代で爵位を。歌長の地位を亡きお祖母さまから引き継いだという。ひょっとしたら。
父も、こんな思いを味わっていたんだろうか――?
困ったように眉宇をひそめ、油断していた母国の宮廷で、エウルナリアは呆然と佇み、途方に暮れていた。
* * *
『ね。あなた。いったい、どうやってあの将軍王に取り入ったの?』
『………………は?』
一瞬、聞き違いかと思った。
会場ではヴァイオリンが心地よく、絶妙な主張で優雅な旋律を奏でている。人びとはホール中央で踊り、あるいは飲み物を片手に端に避けて語らう。紳士淑女、子息に令嬢。
――おおむね、にこやかに。
休日の午後に執り行われた、御前報告会。
エウルナリアのウィズルにおける“功績”は、あくまで結果のみ明らかにされた。
すなわち、歴史ある広場に新たな名を与えたことによる、勲章および名誉女爵位の授与。内乱でささくれた民の心を歌で慰撫したとされる、感謝を込めた特別親善大使への推挙。
皇王マルセルの覚えもめでたく、雪花皇妃とゼノサーラ皇女が白夜まで出掛けているとあっては、ファーストダンスの相手がエウルナリアになるのは、自明の理だった。
マルセルとは既に春の大陸会議で一度踊っていることもあり、エウルナリアには幾分か気持ちのゆとりもあった。
次いで、アルユシッド。
続けざまにシュナーゼン。
今宵の装いは、気合いの入ったバード邸の女性陣によって、ことの外きらきらしい。Aラインが特徴的なドレスは、反射によってはシャンパンゴールドにも映る、光沢のある布地に散らした天の川のような銀刺繍が印象的。
対して腰より上は、ほっそりとしたウェストを強調するデザインで袖がなく、肘より上まである手袋で露出を抑えたもの。
黒髪はシンプルに高く結い上げ、うなじを出している。髪飾りと耳飾りは大小さまざまな淡水真珠。
胸元にはウィズルで授かった、泉と小鳥の紋様の勲章。
ひかえめな表情と麗しさで、とにかく周囲の視線と称賛を根こそぎ集めてしまった。
……ことへの、反動と言える。
反抗期らしいご子息がたや、自尊心をひどく傷つけられたらしい令嬢がたに、気づくと取り囲まれていた。
クスクス、クスクスと傍目には談笑を交わすように三名の令嬢が囀ずっている。
『やめてあげなさいな。可哀想に。お困りだわ、図星なのよ』
『ほんと、あの武人そのものの偉丈夫によくもまぁ、歌だけでお気に召してもらえましたこと』
……――たしかに。
ディレイは当初、歌に興味などなかった。
大陸会議では、ただ“見事だった”と労われただけ。それすら会話の糸口に過ぎなかったように思う。
つい、真っ正直に説明しようとしたが、そこへどこぞの大柄な子息が割り込んで来た。
こちらも取り巻きを二名連れている。
エウルナリアをにやにやと眺めると、フッと頬を歪めるのが、堂に入って下品だった。
『我が婚約者殿。こんな公娼ごときに、貴女が目くじらを立てることはないよ。ねぇ? 歌うたいの高級娼婦、エウルナリア・バード殿』
『!』
公娼、高級娼婦とまで言われて瞬時に頭が沸騰した。
――なに。何を言った? このひとは。
蒼白な顔で、なかば口をひらいたままの少女に気を良くしたのか、連れの子息らも身を乗り出した。
『金さえ積めばお相手してもらえるんでしょう? どうです、おれは。出世払いですが』
『どうって。正気か? やめとけよ、家が傾くに違いない。セフュラ王やウィズル王ほどじゃなきゃ、見向きもしないって。
……大変ですねぇ、バード家も。伯爵位のためとは言え、アルム殿もうまくしたもんだ。大陸中男女ともに、一体どれだけ垂らし込んでおられるの、や…………ッ、??』
『そこまで。聞くに堪えないよ』
『!! ア、アルユシッド殿下……!』
ぎりり、と片腕をねじ上げられた子息が必死に呻き声を抑えた。どんどん顔が赤くなってゆく。
(このひと……、痛みで息が)
――どくん、どくんと、まだショックで頭に血が昇っている。熱いのか、寒いのかよくわからない。震える。
が、このままではいけないと、勝手に体が動いた。一歩、足を前に。それだけで負荷がかかり、さらに愕然とする。止めないと。
『ユシッドさ――』
『だめだよ、エルゥ。黙ってて』
『……シュナ、さま』
剥き出しだった肩を、あたたかな手に抱かれていた。ぐい、と引き寄せられ、見上げると紅玉色の瞳が爛々と燃えている。怒りで。
皇子はそのまま、心底侮蔑に満ちた物言いで並び居る子息らの名を言い当てた。
『サインドル商子爵の次男、レスト。グーリアス楽士男爵の長男、ジャン。メルビス商男爵の三男、ディンゼルド』
『?!! は、はいっ』
先ほどまでの態度はどこへ行ったのか。三名ともうっすら、冷や汗をかいている。シュナーゼンは普段からは想像もできない、冷淡な笑みと声音でかれらを突き放した。
『エルゥとアルムを侮辱するのは、我ら皇家への侮辱と同義。代々、バード楽士伯家が色を売ったことなどないよ。――知らなかった? かれらは純粋に音楽の業を磨き、代をかさねることで昇華させてきた。皇歴が始まって以来、ずっとだよ。その志といい、本当に稀有な一族だ……。かれら無しでは、レガートは立ちゆかなかった。キーラ画伯家とともに』
『それと』
ぽん、ぽん、と、大柄な子息を捻り上げていた手をはたき、見えぬ汚れを落としていたらしいアルユシッドは、うつくしく、凍りつくほどの微笑を湛えて令嬢がたを流し見た。
『ひっ……』
それだけで、一固まりになった三名の少女は扇子を握りしめ、カタカタと震えている。彼女らにも鉄槌の予告が下された。
『勿論、あなた方の父君の名も顔も、わかるよ。あなた方の顔も。よく、覚えておく。……とくに、嘆かわしいねイリス嬢。きみはレガティアの学院に入ったのではなかった? 何を学んだのかな。……あぁ失礼。途中退学したのだっけ。こっちのレスト君との醜聞で』
『! なぜ、そんなっ』
一気に青ざめた真ん中の少女が、小さく叫ぶ。それににこり、と唇のみ笑みをかたどったアルユシッドが、人差し指を口許に当てた。
――喋るな、の意。
『“知ること”“知ろうとすること”。これを欠くものは、すべからく没落するように出来ている。殊、レガートではね。今からお利口さんになれるか、しばらくはあなた方の家もろとも見守ってあげよう。――――去りなさい。不愉快だ』
『はっ、はい……!!』
ばたばた……と、慌ただしく裾をからげて走り去る令嬢がたと、見苦しく頭を下げつつ去る子息がたを、周囲のいくらかの貴族が不審そうに眺めていた。
そのなかには、かれらの親の姿もあったかも知れない。
『エルゥ、大丈夫だった? あいつらの言うことなんか気にしなくていい。兄上、温情が過ぎるよ。潰せば良かったのに』
『どれも三流以下だ。大して貢献もない。放っといても潰れるよ。借金もひどい。ただ、ここからかれらの親がどう出るかな? って。試そうかと』
『……こわっ』
『何? シュナ』
『いや、何でもないです兄上』
――と。
最後こそ皇家のうるわしい兄弟に、よってたかって甘やかされてしまったが。
エウルナリアにとっては本当に、ある意味ウィズルでの体験以上に衝撃的な夜だったのだ。




