222 学院の朝、皇宮の夕べ(前)
「じゃね」と、軽く挨拶してイオラは去って行った。
二人が足を止めていたのは音楽棟の手前。
専科が異なるため、ここからは別行動となる。
そもそも三学年の後半となると、受ける講義は年間カリキュラムを参考に個人で組むものと定められていた。
よって、同じ専科であってもたまにしか会わない生徒など、ざらだ。
エウルナリアは手を振りつつ、風に揺れる不思議な色合いの髪を見送った。
『……でもさ。休みの日には会えるんでしょ? あいつのことだから、今ごろベッドでのたうち回ってるわよ、不甲斐ない……! とかって。歌長姫も、無理しないようにね』
――と。
食事中に、少しだけやり取りをした。気遣う響きの声が、ふと甦る。
ぶっきらぼうな彼女らしい物言いで、優しさに満ちていた。そのことに、ふわり、と癒されて。
(さ、私も行こっか)
四方を学舎に囲まれた、学院の敷地中心部。
長方形に整えられた見通しのよい庭園は、ひと気はすでに引いた。もうすぐ予鈴のはず。
エウルナリアは単身、まずは正門近くの職員室を目指した。
* * *
「えーと……。抜けた講義に、差し迫った課題の確認……。受けられなかった試験の追試日程と調整、それにレインの相談かな」
ぶつぶつと呟きながら、足は動かす。着いた。
すでに職員室の扉は全開だ。もうすぐ一時限目が始まるとあって、ふつうに慌ただしい。
「――失礼。あっ、バードさんか。お帰りなさい。どうぞ」
「ありがとうございます」
講師の一人に丁寧に勧められ、とりあえず中へ。
失礼します――と視線を移すと、ばったり、本日二人めの知己と目が合った。
「わお、エルゥ!? おはよう。今日からだったんだね、復帰。どう? 昨日皇宮で会って以来だけど。疲れてない?」
「シュナ様こそ、……あ、おはようございます。昨日はお疲れさまでした。今朝は……?」
いつも通り、まったく悪びれない顔で接客用のソファーに腰かける、レガート第三皇子殿下がいた。案の定、卓を挟んだ向かい側の職員からは「こら、殿下。まだお話の途中です」と、こってり絞られている。
が、もちろん素直に応じるわけもなく。
無視。
「僕? 見ての通りだよ~。相変わらず、あれが足りない、これをしろって忙しくって」
「まだ、必修課程の単位取りこぼしがありましたか?」
「そうそう」
フフッ、と微笑む美麗な顔は、基本的な造作が“銀の皇女”と名高いゼノサーラと瓜二つ。
が、少し男性らしくなった。今年の夏、ともに砂漠までの旅程を過ごした日焼けの名残がある。肩幅も、体つきも。野性味が加わった、というべきか。
(見た目は……成長あそばしてるのになぁ……)
ほんのり、残念な生き物を見つめるまなざしになってしまう。
視線を外し、向かいの男性を労うと「いたみいります……」と、ぐっと顔を伏せられた。
担当職員なのだろう。思わず気の毒になる。
「あの。お忙しいところ申し訳ありません。私も、公休で抜けた講義や課題の確認など、したいのですけど……」
「!! あぁっ! そうですね。いえ、貴女は公務でいらっしゃいました。しかも、たったの二か月分ですよ。お待ちを。すぐに声楽科の担当員を呼んで参りますので。
えぇと……、お嫌でなければ、そちらの殿下の隣で、掛けてお待ちを」
そう、若干くたびれた表情で告げて、男性職員は席を立った。
「……だってさ。どうぞ?」
「はい」
シュナーゼンの両脇は空いている。皮張りの三人掛けのソファーの左端に、エウルナリアはちょこん、と腰かけた。
その様子を、まじまじと隣から皇子が眺めている。
「? 何か……?」
「いや。昨日は見物だったな、と思って」
くすくすと笑う、小悪魔そのもののシュナーゼンに、エウルナリアはつい、苦笑する。
「しょうのない殿下ですね。でも……ありがとうございます。ユシッド様にも。お礼を伝えそびれてしまいましたが」
「いーよ。兄上はウィズルで、ずーーーっとエルゥと一緒に居られたんだし。きみの、その感謝は僕の総取りってことにしておこう」
「また、そんな憎まれ口! お兄様の前で仰れますか?」
「無理~。ふふふっ、だから、今言うんだよ」
こてん、と、頭を右肩に乗せられてしまう。
「シュナ様」と嗜めようとすると予期せず、ひやり、と低められた声がかれの口から漏れた。
「――あいつら最低。もっと、やり込めれば良かった。きみが、どんな思いで駆けずり回ったか。知らないくせに」
「…………極秘事項です。そうでなくては、あんなにも自由に動けませんでした。一々会議にかけては時間を無駄にしますし、公にはできない案件でしたから」
ひそめた声で、諭すように応える。
肩口に触れる、さらさらの銀の髪。温もりが、純粋に友として。道をともにした連れ合いの『情』を滲ませるものだったので。
エウルナリアも、こと、と頭部を傾けた。
「!」
「……ありがとうございます。ちゃんと、シュナ様への感謝です。私は大丈夫。そもそも“歌長”に就くということは、きっと、『こんなこと』の連続だと思いますから」
――平気ですよ? と、ほんのり微笑んだ。




