220 発つ、ウィズル
秋も深まる十一の月。
回復期のレインの体が長旅に耐えられるようになるまでは、と、一行はさらに一週間をウィラークで過ごした。
来た時と同様、帰路もサングリード聖教会のキャラバンに同行を依頼している。
責任者のマリオは快く応じてくれた。
「元よりそのつもりです」と。
およそ一ヶ月余りに渡る長期滞在。
――その、最終日の朝のこと。
エウルナリアは、謁見の間にて跪いていた。
壇上の玉座にはディレイ。一段低くなった位置には儀典長官や重臣と思わしき諸侯の面々、主だった騎士達がずらりと並び立っている。リュミナーク卿やセネル、エリオットらの姿もあった。
入り口から一直線に深い赤の絨毯が敷かれている。
水鳥の羽をあしらった真っ白なマントに、垂らした黒髪。青のドレスのエウルナリアは絵のように映えた。天窓から差す朝陽を浴び、ますます現実離れした美を湛えている。
ウィズル史では類を見ない、特例的な一場面だった。
言上を述べていた儀典長官が息継ぎをし、朗々と最後の一文を読み上げる。
「――以上。リュミナーク侯爵ほか御前貴族、御前騎士会議の満場一致により、レガートのエウルナリア・バード楽士伯令嬢に新たなる爵位を付与することとする。バード名誉女爵、これへ」
「はい」
頭を垂れていた少女は、衣擦れの音に銀鈴の声をかさねて立ち上がった。儀礼的な長い裾をさばき、壇の手前まで進む。
儀典長官が捧げもつ黒い繻子張りの箱には、小さな勲章が納められていた。
壇を降りたディレイはそれを手に取り、自然な仕草で少女のドレスの左胸、鎖骨の辺りに針を刺して飾る。
きらり、と良質な金が光を弾く。
百フルール硬貨ほどの厚みと大きさ。緑と金、白の三色使いのリボンが花の形に結わえられた、うつくしい勲章だった。
意匠はアクアマリンの泉に、エメラルドの葉を嘴にくわえたサファイアの小鳥。彫金も精緻さを極め、美術品としての価値の高さが窺い知れる。
くらり。
――何だか、とんでもないものを授けられてしまった……と気が遠くなりつつ、エウルナリアは丈高いディレイを見上げた。
かれは、不敵にも映る面に柔らかく、慈しむような笑みを浮かべていた。
それに、不覚にも呼気を止めながら。
ディレイが考案したという新たな爵位――“名誉女爵”は一代限り。
封土はない。城勤めでもないので年俸も発生しない。建前としては突出した功績を挙げた外国人に授けられる便宜的な貴族階級で、『女爵』というのも初の試みだった。
これから先、エウルナリアはレガートの父が持つ伯爵位に連なるだけでなく、自身も爵位を持つ、いわゆる女男爵と同位と見なされる。
功績は。
* * *
「“ウィラーク祝祭庭園”か。お前らしい安直な名だ」
「……“旧神殿跡地”より、よほど縁起が良いかと思ったのですけど……古いものを一掃したわけですし。あえて故事には因みませんでした。おめでたすぎましたか?」
しゅん、と項垂れる黒髪の少女に、青年王は微笑った。
「いや。悪くない」
――――――――
今回、エウルナリアは女爵位に加え、“ウィズル・レガート特別親善大使”なるものにも推挙されてしまった。
その旨の内容程度なら鷹で飛ばせば良いものを、わざわざ親書にして託されたので、帰国後、必ず皇王に手渡しせねばならない。
ちょっと前まで、ウィズルは厄介な火種でしかなかった。
レガート国内では『成り上がりの将軍王を手懐けた功績者』と見なす者もいるかもしれない。――さまざまな憶測をもって。
だからつい、遠い目になってしまう。
(ひとの気も知らないで)
ディレイは目ざとく、それを見咎めた。
「どうした。気鬱か?」
「! あっ、いえ。また、レガートでも噂攻めに遭うのかなと思うと……少しだけ。私は、友人とウィズルの民の力になれれば、と、願っただけなのですが」
「『友人』。誠に?」
「――えぇ。ディレイ」
間を空けた。
が、きっぱりと肯定した。
嘘偽りなく大切であること。それは、誰に恥じるものでもない。細かな経緯や胸の裡は、晒す必要などない。黙すことこそ。
「貴方は大切なかたです。終生。誇っていただけるよう、これからも精進しますね。“ひと”として。一人の歌い手として」
カツン。
磨かれた石の廊下に、踵が鳴る。
閲兵場ではサングリードの聖職者らと護衛の騎士達、旅支度を整えたグランやレインが待っている。
門扉は目の前だ。
ここをひらけば、心にあらゆるものを刻みつけて過ぎた、ウィズルでの長い時が終わりを告げる。
凛と立つ歌姫を、ディレイはそっと後頭部に触れて引き寄せた。とん、と胸元に愛らしい額を触れさせ、軽く抱擁する。
「……またな。健やかであれ。直ぐの再会を祈る。
どうせ、しぱらくは多国間会議で互いに引っ張りだこだ。目に浮かぶ」
「直ぐ、ですか……。学業もあるのですけど。それはそれで忙しないです。落ち着いて、一所にいられないのは」
エウルナリアはクスクスと笑った。くすぐったそうに。
それでも体の間に両手を差し入れ、さりげなく距離をとる。
わずかな微笑みを残し、じぃっと見上げた。
「ご機嫌ようディレイ。……ありがとうございます。何もかも。どうか、貴方もお元気で」
「あぁ」
――――するり。
いつの間にか手のなかに捕らえられていた黒髪が一房、少女の歩みに合わせ、ひらかれた扉の向こうから風を受ける。
ゆるやかに。
夢のように靡いた。




