22 主従の一線
ポーン……と一音、離れのピアノ室で白い鍵盤が鳴った。右の端でも左の端でもない、ふつうの、ト音記号のAの音。
見るまでもなく、聴けば自然に音階はわかる。エウルナリアは相変わらずグランドピアノの反響板を閉じ、みずからの腕を枕にしてレインを眺めている。ゆえに、かれの手元は見えない。視界も九十度傾いている。
「何だか、久しぶりですね…何を弾きましょうか、エルゥ?」
ポーン…
続けて、ヘ音記号のF。
レインは、灰色の視線を手元の鍵盤に落としている。けれど、口許には楽しそうな笑みが浮かんでおり―――わくわくとしているのは一目瞭然だった。
エウルナリアは、反響板に頭を預けながら眩しそうに青い目を細める。大好きな従者の少年は面差しに繊細なうつくしさを備えているため、残念ながらあと少しのところで「美少年」から抜けきれていない。
主の少女はくすくすと笑った。
「なんでも。レインが弾くなら、何でも好き」
「……」
艶のある栗色の髪の少年が、視線を上げた。まなざしで、スゥ…ッと主を捕らえると、にこりと微笑む。無言だ。
あ、何かまずかったかな―――と、ぼんやり見つめていると、笑顔のまま、ぽんぽんと右隣の連弾用の椅子を叩かれた。
「よろしければ、こちらにいらっしゃいませんか? 思いっきり弾きたくなってしまったので」
「? ……うん、いいよ?」
さして疑問にも思わず、エウルナリアは傾いていた半身を起こす。
つややかな反響板と同じ色の柔らかな長い髪は、頭を上げて身を離した少女の背をふわりと追いかけた。
奏者の後ろから回り込み、右の椅子にしずかに腰掛ける。
と――――レインは瞑目して細く息を吐き、フッと止めた。
次の瞬間、ひらかれた灰色の瞳はピアノを映しつつ違うものを捉えるかのようだった。
(…!)
バァンーーー……ッ
長い指。大きな両手が幾つかの黒鍵と白鍵を同時につよく沈め、弦とピアノを深く共鳴させる。複雑な和音。
来た。……始まった。
すっと瞼を閉じ、レインが奏でる音の奔流に心を委ねる。
速い。とても速いテンポでやや荒々しいほどの打音。凄まじく正確で鋭い―――厚みのある低音。駆け上がり、どきどきと胸を騒がせるような旋律。
……どうしようもない。この音が好きで好きで、たまらないと感じてしまう。エウルナリアの唇は、気がつくと笑みの形になっていた。
歌いたい。
思うと同時にひらいた口からは、先ほどの旋律が溢れでた。
「!」
今度はレインが驚く番。
歌いながらエウルナリアがにっこり笑いかけると、かれの目許も優しく和らいだ。
同じ主題を、ピアノも追いかける。
エウルナリアの歌声とそれは輪唱のように重なり、少しずつ形を変えて――――
まるで、楽しげにいつまでも続く会話のようだった。
* * *
「はぁ……歌っちゃった…」
思いがけない即興共演を終えたエウルナリアは、張りつめていた緊張の糸をゆるゆると解いた。
ちょうど良いところにレインの肩を見付けて、こてん、と頭を預ける。ついでにすり、と額を擦りつけた。
「………エルゥ様…」
ん? と、角度をずらし見上げると、レインが左手で目許を覆い、項垂れている。
「なに?」
…どうして敬称が戻ったんだろう。
そう思いつつ、姫君の暴走は止まらない。ぴくりとも動かないレインの右腕に抱きついてみる。
ぷちん。
レインの堪忍袋の緒が切れた。刹那、エウルナリアは最近では珍しい、頬と耳を真っ赤に染めた従者から激しく叱責された。
「ーーっ!! 勘弁、してください! 僕がどれだけ理性を総動員してるか、わかってるんですか…!」
「ごめん。じゃあ…離れる?」
ぱっと手と身体を離して小首を傾げると、今度は震えられた。
もう、どうしたらいいの……と途方に暮れ始めた頃。
―――レインが動いた。
ふ、と視界が暗くなる。素早く左腕を掴まれ、引き寄せられた身体はあっという間に抱きすくめられる。そのまま顔を上向けさせられ、口づけられた。
「!!!」
塞がれた、だけではない。思わずあの宴の夜が脳裡を掠める。反射で抗うがやはり後頭部に手をあてがわれ、捕らえられた。
髪の間を滑るように撫でる指。
腰に回されてびくともしない腕。
でも、相手はレインで―――そのことに混乱する。
心臓がどきどきしてうるさい。胸が内側から締め付けられたみたいで苦しい。熱くて、どうしたらいいかわからない……何も、考えられない!
呼吸のためか、唇がずれた隙に言葉を紡いだ。
「レイ…ン…っ! どうして……?」
エウルナリアは息も絶え絶えで、涙目で問いかけるものの、それが逆効果だとは気づけない。
それでも、レインの従者としての意識は奇跡的に主の切ない声を拾った。……苦しげな灰色の瞳には、まだ熱に浮かされるような光が滲んでいたけれど。
従者の少年は、主の華奢で柔らかな体をきゅっと腕のなかに閉じ込める。
埋めた黒髪に、ため息を落とし込みながら。
「お忘れかもしれませんが……僕は男ですよ、エルゥ。密室で好きな女性からあんな風にされたら、抑えられなくもなります」
「……そうなの…?」
「そうです。……お嫌いになりましたか? 僕が、乱暴で」
動悸はまだ収まらない。おそらくは、レインもそう。
……そう考えると、なぜか可笑しくなってしまったエウルナリアは―――つ、と身体を離し、間近で従者の少年の顔を見上げて微笑んだ。瑞々しく咲き綻んだ、薄紅をまとう白い花のように。
「嫌いになんて、ならないよ…大好きだよ?」
たちこめる花の芳香のように、エウルナリアの笑顔にくらり、と意識を奪われる。
天を仰いだレインは――――本当に辛うじて、踏みとどまった。




