216 箱庭の逢瀬
かさり。散った落ち葉が細い石畳をあちこち塞いでいる。暗くて見えてはいない。音でわかるだけ。
前をゆく背中も、黒豹の毛皮で艶はあるものの真っ黒なため、わかりづらい。ただ、あるか無しかの風に揺れる砂色の髪は夜目にも鮮やかだった。
その髪が、ぴたりと止まる。
(わ)
危ない。思わずぶつかりそうになり、慌てて立ち止まった。
庭の入り口で待たせたままのグランとの距離を目視で計ろうとし、――再度、叫びを飲み込むはめになる。身体が、うしろに引かれた。
「!」
「静かに。……寒いだろう。俺も寒い。このままで」
きゅ、と、回された両腕に力が込められる。痛くも苦しくも重くもない。絶妙な力の入れ具合。けれど、二重の意味で外しがたかった。
――ディレイにしては珍しい。
寂しそうな声だった。本当に冷えて凍えて、暖を欲しているような。
よって、現在はたっぷりとした黒豹のマントで、肩から下をすっぽりと包み込まれている。
――――否。
背中から抱きすくめられている。
「~~!!!!」
理解と同時。エウルナリアは、みるみるうちに赤面していった。
「あの…………ディレイ。庭でなければいけなかったんですか? お話は。その……」
「あぁ。今、ここでなければ、ずっと話せない」
身長差は三十センチ近くあるかもしれない。
なので、普通に防寒がてら、温かいマントでくるまれている感覚に近い。かれの声もずっと高い位置から降ってくる。
が、これはどう見ても抱擁だった。よくはない。わかりやすく、駄目の部類。
ばくばく、と鳴る心臓を上から押さえて、エウルナリアはつられて声を潜めた。
なんとなく。
予感に駆られて。
「……お諦めになる、決心はつきましたか?」
「お前、見た目によらず本当に残酷だな……」
「当たりですか」
「まだ、わからんが」
とくん、とくん。
トク、トク、トク。
ゆったりと脈打つのがディレイ。
やや駆け足なのが自分の脈動。
かさなり、背中越しに熱が溶ける。
――今。この時でなければ。
言っている意味は、わかる気がした。なので、ほろ苦く笑む。そぅっと、ディレイの腕にみずからの指を添え、すり、とこめかみを当てた。
びくり、と大きな腕が震える。
こんなに強く、大きなひとが、と。
改めて胸に、痛みが走った。
――――添い遂げることはできない。自分にはもう、大切なものが多すぎる。このひとには、このひとだけに全身全霊を傾けられる女性でなければ、だめだ。幸せになってほしいひとなのに。
自身の生業や体質をおいても、そう思う。
あらゆる意味で不適格。まっとうな判断を、今、ディレイは下そうとしている。だから。
振り向かない。
回された腕を、左腕だけ抱きしめた。
「きっと、貴方だけを慈しんでくださるかたがいます。わかります。……そのかたと、ともに過ごす時間を選んでください。呼んでください。いくらでも、歌いに参りますから」
「――嫌だ。お前でなければ、と……言ったら?」
いつの間にか、声が近くなった。
左耳の近く。髪に直接、あたたかな息を注がれた。
(!)
跳ね上がる鼓動を悟られぬよう、間を空ける。だめ。何としても、今ここで揺らいではいけない。流されては。
(私が、ほんとうに、大事なのは。ひとに託せないのは)
――……“どいつを独り占めにしたいんだ?”
耳打たれたグランの声が閃く。
そう、訊かれては。
誤魔化しようがなかった。ずるい自分。
あげくの果てに、手をあげて。
「ごめん……、ごめんなさい。私は、私でなければ許せないひとが、います。貴方への気持ちと、かれへの想いは全然違う。違うんです……!!」
じわり、と目尻が滲んだ。せっかく直したのにと思ったのも束の間、唇を寄せられ、吸いとられた。
「!? ディレっ……??」
「お前が好きだ。おそらく、この病は治らん。だが……」
ぎゅ、と。
息がしづらくなるほど、力を込められた。
頬と、頬が触れる。ほんの少し動けば、たやすく口づけられるだろう。なのに、互いにそれ以上は求めない。求めてはならないと、同じ場所に軛を打った。
これが、境界線。
おそらくはこれが自分達の、最後の。
互いへの“証”なのだと思う。
「エウルナリア」
「はい」
「エウル、ナリア」
「……はい?」
なぜかな。
全然違う。まったく、考え方も価値観も、その苛烈さも孤独さも。
きっと、永遠に理解はしてあげられない。なのに。
「お前だけは今生、この先ずっと、変わるな。ずっと名を呼んで欲しい。尊称も敬称も……要らん。お前にだけ、許すから」
(ほらまた。自分から、寂しくする。追い込んじゃうんだ)
鼓動の深さも速さも熱も、もう筒抜けだとわかる。だからこそ力を抜き、エウルナリアは背後を振り仰いだ。
頼りない、至近距離。
何かに不満げにも映る、必死に堪えるかれの表情に、やわらかく微笑みかけて。
「わかりました。貴方が、そうと望まれるうちは。――ディレイ」
その時。
リィン、ゴーンンンン……と、深夜を報せる鐘が鳴り響いた。おそらくは時計台。旧神殿跡地だろうか。それとも広場――?
長い、長いウィズルの花祭り。その絢爛たる一区切りを高らかに祝う音の、余韻が身体を伝う。
きっと、このひとだけは、私の長い名前をそのままで呼び続けるのだろうな、と。
胸に再度、いたみと熱を焼きつけて。
「貴方にも……祝福がありますように。来年はどうか、お好きな花を身につけてくださいね」
――――ディレイ一人、今宵の宴で花を飾っていなかった。誰も、何も言わなかった。
おそらくは、旧神殿を潰したけじめや、内乱で命を落としたひと達を偲んでのことだったのだろう。
どうか。
この不器用なひとが、いつか心からの安らぎを得られますように。
エウルナリアはディレイに代わり、西国の天地そのものに、静かに祈った。




