212 紺色の瞳の守り手
ほっそりとした繊手が長身の騎士の頬を打つ音は、さほど大きいものではなかった。曲の区切りにもたらされた、場内に満ちる拍手のさざめきに紛れたことも大きい。
が、見る者はチラチラと見ていたわけで。
好奇の視線が集まる。
むくむくと苦い悔恨が湧く。
――落ち着け。落ち着いて。
今のは、私が悪い。
眉をひそめ、目を瞑ったエウルナリアは、さ迷う右手を胸元に寄せて握りしめた。
「……ごめんなさい。やっぱり、疲れてるみたいです。一度、化粧室に下がります」
「こちらこそ。出すぎたことを申し上げました。お許しを」
互いに謝罪し、ホールを囲む円柱回廊伝いに目立たぬよう歩く。
何かを察したのか。
ウィラークお抱えの楽団はあえて明るい曲を賑やかに奏で始め、人びとは再び美酒に舞踏、それぞれの享楽や社交へと舞い戻っていった。
* * *
コツ、コツと二人分の足音が廊下に響く。
同じ城内であっても主会場から離れると、ずいぶん静かに思えた。
冴えざえとした月光が足元を照らすなか、歩調を姫君に合わせた騎士は、実に軽い調子で切り出した。
「エルゥ。このまま、ばっくれちまえば? あと小一時間で深夜だし。レインとこか、アルム様のとこにでも行っとけよ。一人より、誰かといたほうがいい。“体調を崩した”とかなんとか、上手いこと言っとくからさ」
ぶっきらぼうな口ぶりのまま、今は“紳士”ではなく、いつものグラン。エスコートもされていない。
エウルナリアはグランより遅れ、やや斜め後ろを歩く。
視線は落ちている。ふるふると頭を振った。
「だめ。仮にも主賓よ? さっきのだって充分あり得ないことで…………、あぁもう、本当にごめん。痛い?」
「いや全然」
ほんのりと赤い頬を晒したまま、けろり、とグランは答えた。
(……)
眦が下がる。泣き笑い。こういう時、かれには敵わない。
グランは乱暴に見えて、すごく優しい。誰よりも繊細に周囲を。自分を見ていてくれる。
だからこそ。
エウルナリアは歩みを止めず、俯いた。なるべく普通の声に聞こえるよう、問いを。問いの形をとる、ずっと漏らせなかった、幾つかの告白をかさねる。
「グランから見て、私は……醜いかな。あなたに訊く自分もどうかと思う。けど、胸がざわざわするの。ウィズルに来てから考えるべきことと、考えないようにしてること。二つあって、…………時々つらい。とるべき道も、大切にしたいものも、ずっとずっと、変わらないのに」
「んー。まぁ、そうだろうな。見ててもわかる。わかり易すぎるくらい」
「そんなに?」
顔を上げ、聞き返した拍子に、ぽろり、と零れるものがあったけど無視した。
今の最大関心事はそれじゃない。今さら自分の状態など、果てしなくどうでもいい。
すがるような面持ちの幼馴染みに、ちら、と紺色の視線が流される。まなざしに少し、痛みの影が宿った。
「――『醜い』とかは、天地がひっくり返っても思わねぇけど。見方によっちゃひどいかもな。俺は時々、エルゥのこと、頭の天辺から爪先までめっっっちゃくちゃにしたくなる」
「…………それ、嫌いってこと?」
「ばーか。ほら、着いたぞ、直してこいよ、ひでぇ顔」
「……うん」
否定せず、エウルナリアは目許を拭いもせず、化粧室へと入っていった。
ぱたん、と目の前で扉が閉まる。
グランは思わしげに、壁を背にもたれた。
両腕を組み、回廊の向こう側――きらきらしい光こぼれるホールの辺りをぼんやりと眺める。
「これ…………。『俺が泣かした』ってことに、なるんだろうなぁ……」
――――――――
互いに小さかったころ。
十歳の春に出会った。夏に再会して、バード卿の許しを得て仲良くなった。
見た目によらず、強情なところのある少女だった。こと、自分のなかで譲れぬ一線に関しては。
普段はおっとり、うっかりしているくせに、肝心な場面では有言実行を課している。『言葉』に慎重になる。
だからこそ、本当に大切なことは滅多に言わない。容易くひとの心に飛び込むくせに、自分のなかには立ち入らせないのだ。その、一線が。
――――変わらぬ指針でもあった『それ』が、今は彼女をじりじりと追い詰めているというのに。
(どっかで爆発させないと。あいつ、また気づかねぇふりで頑なになっちまうんだ。余計な回り道なんか。むだなのに)
「卒業の時、とか……関係ねぇだろ、もう。気づけよアホ」
彼女が誰を選ぼうと。
自分は騎士として側にいる。
その選択が、今は揺るがぬ己の指針。
悔いは、ない。




