209 二組の密談
「こちらへ」
セレドナは、もの慣れた様子で柱の影を移動した。窓際に立ち止まり、壁を背にパチ、と扇子を鳴らす。
ケイトウに似たそれを緩く右手側に傾け、まだ立ち入ったことのない庭へと続く階段を指し示した。
「ここは?」
「わたくしの、お気に入りの場所ですわ。夜のほうが綺麗なので」
方角は東。以前ディレイと歩いた北棟のささやかな庭とは異なり、東棟に詰める官吏らも行き交う『表』の庭だった。
たしかに筆頭貴族・リュミナーク家の息女ならば自由に出入りできるだろう。しかし。
(東は国政の中枢。官吏の実務領域。さすがに異国者は入れないんじゃ……?)
扉の端では衛兵が二名、油断なく警護に勤めている。猫の子一匹通さない、しずかな気迫だった。
猫――この場合、自分やグランは即刻つまみ出されるのではないだろうか。招かれた宴にも参加しない不審者として。
エウルナリアは、おそるおそる亜麻色の髪の少女に尋ねた。
「……勝手に降りても宜しいんですか?」
不安げな客分に、重臣の娘はくすくすと笑う。
「いいんです。今日ばっかりは、朝まで招待客全員に解放されていますから。ほら、灯りが見えるでしょう? あれが好きなのです。特別なときでなければ、点けていただけないのよ」
促され、装飾的な格子窓から外を窺うと、階段の両脇に白っぽい石の灯籠が見えた。
風で消えぬよう、硝子で覆われた蝋燭の灯は、茂みに埋もれた庭の径まで等間隔に続いている。
硝子には彩色が施されているようだった。
――白、黄、赤、水色に桃色。幻想的な光が篝火で薄められた闇を彩っている。
エウルナリアは思わず感嘆の声を上げた。
「あ……! 面白い仕掛けですね。お庭の花が色づいて見えます。凄い」
「うふふっ。私の手柄ではありませんが、お気に召していただけて良かった。いかが? 散策には打ってつけですよ」
小首を傾げるセレドナは大人びて、とても駆け引きや話術に優れている。
が、話し込むうち、ふとした声の幼さや未成熟さにも気がついた。おそらく、まだ十五になっていない。
(リュミナーク卿の教育方針か、ご本人の才覚か……。どちらにせよ並大抵のことではないわ。気を引き締めなければ)
ちら、と傍らの騎士を仰ぐ。
グランはおどけたように肩をすくめた。
「どこまでも付いて参りますので、お気になさらず。どうぞ、エウルナリア嬢。外は冷えますよ」
パチン、と留め金を外し、グランが自身のマントを取った。よく見ると裏地はあたたかそうな、真っ白の毛織りの内張りが施してある。
ふわり、と空気をはらみ、肩と背を覆うマントは温もりそのものが優しい。重みに安堵する。エウルナリアは、はにかんだように礼を述べた。
「ありがとう」
……でも、彼女は肩も胸元も露出が激しかったはず――と、振り返ると、すでにドレスと同素材のケープを羽織るところだった。
どうやら、腰でゆったりとドレープを描いていた共布は取り外し可能なオプションだったらしい。そのデザイン性の高さにまじまじと見入り、感心する。
いっぽう、ホールからの光を後背にまとい、絵のように佇む異国の客人らを前に。
セレドナは、あながち嘘でもなさそうな羨望のまなざしを注いでいた。
「まこと、淑女が持つべきものは『誓句の騎士』ですわよね。羨ましいことです」
「まぁ……!」
「恐れ入ります」
古謡に出てくる、乙女に愛と忠誠のすべてを捧げた騎士の逸話を持ち出され、エウルナリアは目を丸くした。(事実、そういうことだったので)
当のグランは『だよな~』と言わんばかりに、しれっと騎士の礼をとる。
――おかしな乙女と騎士ね、と朗らかに笑い、セレドナは階段を降りていった。
* * *
黒髪の少女と赤髪の騎士が消えたことは、早々に気づいていた。その少し前に、ウィズル貴族の代表ともいうべきリュミナーク侯爵家の姫に、声をかけられていたのも。
(卿の差し金かな。あるいは、かれの)
音楽は切れ間なく流れている。ステップは淀みなく続いている。
ウィズルの貴族達は、精力的に社交に勤しんでいた。各国大使らも。
アルユシッドは、そっと眼下の銀色の頭に話しかけた。
「実際、どう? サーラ。ウィズルに嫁す気はある?」
「ディレイ殿に、ではないのね。そこ」
「そりゃあ、そうだろう」
ふわり、と両者の衣が宙をなびく。片側に結い上げたゼノサーラの銀糸の髪もまた、あざやかに人目を引いた。
ほう……、と、ため息をもらす貴婦人がた。飲み物を片手に惚ける紳士の歴々。レガートの一対は、文字通りホールの華だった。
――――――――
『ちょっと、休憩しようかサーラ?』
あちこちからダンスの誘いを受け、捌くに捌ききれないでいる、うつくしい妹姫への助け船に見えた、兄皇子からの誘いだった。
『しょうのない兄様ね。よろしくてよ』
と、これまたいつも通りな銀の皇女。
ひょっとしたら王妃に。
ゆくゆくは国母にもなりうる少女かと、ゼノサーラは関心の的になっていた。
同時に、いま現在進行形で王の寵愛を欲しいままにする異国の伯爵令嬢に繋がりを、と、鼻息も荒く奔走する者が少なくない。
あらゆる意味で、姫君がたは『華』だった。
息の合った流麗なダンスは、それだけで目の保養となる。
宴もたけなわ、兄妹はよい見物と化していた。そうなることすら計算ずくで。
「ウィズルは、今なら輿入れ先として悪くない。ちゃんと意義がある。ディレイ殿も一度妃に迎えた女性なら、とびきり大切にすると思うよ」
「ねぇ。それ、けしかけてる? ただ恋敵を減らしたいだけでしょ、まったく。可愛い妹の将来を何だと――」
「幸せを願ってるよ。勿論」
「!」
アルユシッドはいつも笑んでいる印象の面立ちだが、本当の笑顔になる瞬間は滅多にない。だが、このときは。
「……それは、お互い様なんだけど……」
まなざしを受け止めかねて、皇女はいやいや目を逸らした。
それが、衆目も憚らずにしょっちゅう不貞腐れていた、記憶のなかの幼い横顔と重なって。
皇子は一層、笑み深めた。
「難儀だよね。お互い」
「そうなのよねぇ……」
ふぅ、と落とされる皇女のため息。皇子の苦笑い。――額面通りの休憩。
やんごとない兄妹で交わされる密やかな会話は概ね、ほのぼのとした率直さにあふれるものだった。




