205 戦の裏、表の宴
「や。ここ、いいかな」
「え……?! アルム様!!」
コンコン、と行儀のよいノックのあと、なぜか軽装の歌長が現れた。
レインは慌てて寝台から起き上がろうとし、ご多分にもれず、「痛ぅぅ!」と叫ぶ。
おやおや、と眉をひそめてから、アルムは思い出したように扉側を振り返った。「では、私はこれで」「あぁ、案内ありがとう」と短い応酬が聞こえる。
どうやら、城の侍女に連れられてここまで来たらしい。またしても枕に突っ伏す羽目になった少年は痛みを堪え、ぐっと声を振り絞った。
「どうして……。宴は? 出られないんですか?」
「うん。元々、私がここで歌うこと自体、予定になかったわけだし。エルゥの機転とディレイ王の采配のおかげで、思いがけず共演ができた。
……満足だよ。こちらの陛下は、もちろん快く宴に招いてくれたけどね。尋ね聞く限り、今回の客層で私が立ち回るべき案件はなさそうだった。予定も詰まってたし。疲れを理由に丁重に辞退したんだ。明日、朝一番にトランペット奏者二人を連れて発つよ」
だから、さすがに寝なきゃね、と、軽い調子で言い放つ。そうこうする間に寝台まで歩みより、側にあった椅子に浅く腰かけた。
ちら、と瞬間、痛ましそうに視線を向ける。
「具合は」
「かなりいいです。賊の武器は、この辺りでは珍しい幅広の湾刀でした。状況からして、切るべきかどうか迷いがあったようで。……――いちばんの幸いは、それでしたね。出血のわりに傷はさほど深くなくて。
思いの外さっくりやられましたが、『綺麗に切られてるから治りは早いよ』と、ユシッド様が仰っていました。
指は動くんですが、ピアノは体全体を使いますし……。今年は、演奏は無理ですね。殿下からは、冬季休暇の終わる年明けから学院に戻るよう、ご指示をいただいています」
「そうか……。ありがとう。すまない」
飄々としたアルムの、いつになく殊勝な態度と思わしげな顔色だった。
腹の底から。
柔らかなテノールに実直な労りと感謝を乗せて囁かれると、同性のレインであってもどぎまぎする。
それでなくとも、アルム・バード楽士伯はあらゆる意味で雲上のひと。名実ともにレガートを牽引する、得がたい旗頭の一人なのだ。
痛みを忘れ、あわわ、と少年は首を横に振った。
「いえ……! 当然のことをしたまでです。第一、あの方を拐わせるべきではありませんでした。僕の、完全なる力不足です。申し訳ありませんアルム様」
――あげく、この有り様ですから、と付け加えて笑う。
「う~ん……」
アルムもつられて、困ったように眦を下げる。
自分に。愛娘にまっすぐ向けられる灰色の瞳。澄んだまなざし。
どこまでも、幼い頃から変わらない凛とした毅さを滲ませて。
「何か……お話があるのでしょう? どうぞ」
しん、と、周囲の音がかき消えた気がした。
長年仕える主の父と、寝台に伏せてはいるものの差し向かい。レインは淡く、しずかに微笑んだ。
* * *
同時刻。
きらびやかなホールに王の来場が告げられ、集まった貴族らはざわめきを収め、中二階席に佇むディレイを見上げていた。
かれの姿は、ゆるく弧を描く大階段の上にある。左手を腰に当て、悠々としたものだった。
仮にも舞踏会。
楽団は、城付きの者達がそれなりにいる。
が、音楽の化身のような客分には、さぞ物足りなかろうな――と、若き王は無意識に苦笑を浮かべた。
それが、本人が思う以上に傍目には甘く写り。
さわ、と、一部の年頃の令嬢がたや、娘を持つ親世代が過敏に反応する。
ディレイはお構いなしに口をひらいた。
「皆、息災に今年も、我らが国を建てた祖の偉業を崇め、ともに祝うために、よく集まってくれた。ちょっとしたいざこざはあったものの、無事に乗り越えられたことを喜ばしく思う。先の王権は」
いったん、言上を止めた。
息を吸い、息を吐く。
――長かった争乱に、いたずらに散らされた命の多さに。因習めいた悪習に、良いように道を歪められた者達に。
あらためて、弔いを。
あらためて謝意を。
(もっと。早くに起てば)
変わらない回顧。悔いに似た苦み。
きゅ、と厳しい面にみずからを律する思いを込め、知らず、瞑目していた瞼を上げた。
覗きこめば、存外にやさしい大地の色の瞳を左から右へと流す。
ゆっくり。
静まり返った貴族達の視線を、絡めとるように。
「多くの犠牲の上に、いま我らが立つことを、生涯。――……少なくとも、俺は忘れん。貴殿らも出来ればそうあってほしい。せっかくの祝いの席だ。これ以上は言わんがな」
ふっと、薄く笑みを浮かべる。
最初の苦笑とは明らかに異なる、すでに『個』としての己など見限ったつめたさ。為政者としての凄みを滲ませるものだった。
(…………!)
後ろ暗いところのある面々は、それだけでじわり、と圧を受ける。刃を突きつけられた錯覚に陥る。
が、それも一瞬。
王は、再び華やかに微笑った。
「ともあれ、今宵は大いに楽しむといい。貴殿らの健勝あってこそのウィズル。民の健やかさあっての我らだ。また、中々ない機会でもある。冬将軍に閉じ込められる前に、互いに実り多き時であるように。
――楽の音を。この日のために訪れてくれた客人らに道を開けよ。
儀典官、奏上を。かれらを此処に案内せよ」




