203 ちょっとだけ
コンコン、と扉が叩かれた。
――はい、と応え、ドアノブを回しひらく。隙間から顔を覗かせたのは黒髪の美姫だった。
ひゅうっ、と、無意識に口笛がもれた。見慣れた旋毛は複雑な編み込みに隠されて見当たらない。
ちいさな、整った面を両側から彼女自身の髪が飾っている。夜色の髪は側頭部でゆるやかに編まれ、こめかみから顎のラインで一度たゆみ、うなじへと続いていった。
耳の下から――おそらく真後ろまでは、薔薇の生花が挿されている。
花弁のやわらかな白と、露に潤む瑞々しさ。漂う香気は楚々としたレガート風の衣装と相まり、少女をおそろしく引き立たせた。
しかも。
後頭部からふわりと肩にかかり、垂れるのは。
「…………やべ。エルゥ、もう誰かと結婚すんのかと思った。目が潰れる」
「!? まだしないよ? と、言うより潰れちゃだめでしょ。入れて?」
「あぁ、はいはい」
驚きと呆れ。若干の憤慨に青い目を煌めかせた少女は、いつまで通路に立たせる気かと言外に騎士を責めた。
彼女のなかにある、『自分だけの騎士』という甘えが心地よく、くすぐったい。同時に容易く胸まで潰される。
(こいつ、俺とだけは絶対結婚しないだろうからなー)
ぱたん。
「グラン?」
「ん?」
彼女を室内に入れてやってから、やや身を寄せてカチャリ、と施錠する。きょとん、と呆けた表情を真顔で見下ろし、扉に押し当てるように再度後退させた。
「……なんで鍵しめちゃったの?」
「さぁ」
エウルナリアは、やっぱり小さい。右手でドアノブ。正面に彼女。左手で扉に手をつくと、簡単に包囲網が完成した。
一見のっぴきならない事態のはずが、どんな信頼の延長線上にあるのか、少女は小揺るぎもしない。
さらに、落ち着き払って回想まで始めた。
「こういうの、昔もあった気がする……」
ぱち、と、純粋に過去をさらうまなざしに、グランは吹いた。
そのことにこそ、エウルナリアは慌てる。
「ちょっ……、あったよね? たしか、バード邸で」
「あぁ、あったあった。そういうこと」
俯き、こつん、と額を落とした。俺だって甘えたい。
残念ながら身長差がありすぎるので、額同士は合わせられなかった。彼女の見えない旋毛の辺りに容赦なく打ち付ける。
よって、それは図らずも色っぽい絵にはならず、拳骨めいた衝撃をもたらした。ついでに体重をかける。
「痛い。重い。退いてっ」
「えー? いやだ。もうちょっと」
――もうちょっとだけ。できればもっと。
そんな気持ちが、彼女の自由な右手首を捕らえさせる。うっとりするほどの熱。甘やかな匂いについ、顔を寄せそうになった。――ところで、後ろ頭を叩かれた。
バシッ
「いってぇ」
「こっちだって、痛いですグラン。歩いて片手を上げて貴方をどつくのが、こんなにも苦労を要するとは思いませんでした腹立たしい」
「あー、歩けるようになったんだ?」
「歩かざるを得ないでしょう……!! エルゥ様、大丈夫ですか」
「平気。グランが“触りたがり”なのは、十歳の頃から慣れてる……」
「騎士の風上にも置けませんよね」
「うっせぇ。怪我人。引っ込め」
「「貴方が、歩かせたんでしょうが……!!」」
「……ぶっ」
ぴったり同時。異口同音。
揃いすぎるほど息の合った主従に、赤髪の青年は今度こそ破顔し、体を二つに折って腹を抱えた。
存分に笑う声も似つかわしいほど、何となく城中、華やかな祝いの空気に満ちている。
それもあり、最初にエウルナリアを花嫁と見違えた。
体の下から、淡い光輝がこぼれるような錯覚を残して白いヴェールが揺れる。逃れる。
あとを引いて波打つ黒髪が、「レイン」と呟く彼女を追いかけた。
抱き合ったりはしない。
触れることもない。
それでも、視線を繋げて微笑みあう二人は紛うことなき恋人同士。
ふー……と、とっくに笑いを収めて腕組みした騎士は、扉に背を預けて斜に構えた。
「いちゃつきたいかもだけどさ。時間だぜエルゥ。宴の間、エスコートは俺に任されてる。いい子で寝てろよ、レイン」
「……口惜しいやら、何やら……。じゃあ聞きますがね、グラン。貴方が僕の立場だったらどうです。寝てられますか?」
ぎっ、と。
睨みあげる灰色の瞳に機嫌を良くしたグランは、にこにこと答えた。
「ばーか。寝てるかよ。間違いなく起きてるね。で、帰ってきたエルゥに何しよう、とか。さんざん困らせたり弄ったり、泣かせたりで妄想を――」
「!! はいぃっ、そこまで! 冗談お終い! ね、二人とも。仲良くしとこう? 行くよグラン。ごめんねレイン。無理して動いちゃだめよ。深夜までは戻れないみたいだけど、絶対すぐ、戻るから!」
逆エスコートよろしく、幼馴染みの騎士を引っ張ると、かちん! と解錠する。
扉を開けたところで「あ」と、何か思い出し、たたっ……と戻った。
「これ」
「?」
ずっと、左手に持っていた白木の小箱を渡す。
軽い。
レインがそっとひらくと、中には白い絹地になめらかな光沢。みごとな細工の刺繍紐が几帳面に納められていた。
色合いは青と灰色。アクセントに銀の幾何学模様。その色は。
姫君は、名残惜しそうにほのかな笑みを浮かべた。
「街の、刺繍工房に行ったの。注文したらあっという間に仕上げてくれて。職人さん、すごかった。
あの……また来たいな。ここ。色々ありすぎたけど。今度は貴方と歩きたいです。怪我が治ったら」
「…………はい。ええと……、ありがとうございます」
束の間、ほのぼのと空気が緩む。
口達者な従者が何も言えなくなったあたりで、通路からグランがエウルナリアを呼ぶ。それに、応えて。
背伸びした姫君はほんの少しの逡巡のあと、目を閉じ、「行ってきます」と、少年に口づけた。




