193 散策(後)
なぜ、振り払えないんだろう――?
決して指に力を込められているわけではない。
最初はともかく、今は壊れ物を扱うような加減で握られた右手を、まるで自分のものではないように感じる。
瞬間、雑踏が遠退く錯覚に陥った。景色がゆるやかに流れる。
(ん)
エウルナリアは、声には出さなかったが物問いたげにディレイの横顔を見上げた。
進行方向を逸れて、脇に向かって歩いている。
立ち止まっていた二人を避けるように、人びとが流れていた。その波を器用に縫い分けている。
通りの道幅は七~八メートル。その片側に準備中の屋台が二つ並んでおり、間はちょうど聳え建つ石塔の影。
手を引かれ、するりと連れ込まれた場所は確かに物陰で、通行人の視線からは逃れられた。
ほっと安堵しつつ緊張する。これはこれで、まずい。
おまけに屋台の物売り達は、全身を耳にして立ち働いている気がする。手は繋がれて、かれの胸元に捕まったままだ。
「あの……何か、お話でも?」
「いや? そろそろかな、と思って」
「?」
話が見えない。
どうやら色っぽい企てではなかったものの、傍目には『そう』としか映らないだろう。
さすがにそろそろ、衆目の怖さについて説かねばなるまい――――そう、決意した時だった。
ひらり。
エウルナリアの視界を、何かが掠めた。
ひら、ひらり。
何か白い。柔らかいもの。故郷の真冬の星祭りで見られる、ぼたん雪が降り来るよりも、もっと早く。もっと鮮烈な存在感と、薫る香気とともに。
(!!)
うわぁぁああ……と突如、通りの向こう側から順に歓声が上がった。
皆、笑顔だ。立ち止まり、進行方向を見上げる人びと。指さす若者も。
かれらの視線につられ、建物に切り取られた細い空を振り仰ぐと、やはり、ちらちらと何かが降っていた。
注視するとわかる。遥か高みに誰かがいる。
かれらによって、高架や建物の屋上に渡された何枚もの色布が取り払われる瞬間だった。
「わ、あぁ…………っ!?」
ばささっ、と、重たげな音。翻る布地。音もなく落ちてくるのは、花、花、淡い色調の花びらの数々。まるで雪のように。
――――目をみはる。
次いで『食べては大変』と、慌てて口を閉ざした。左手で覆う。
白、ピンク。黄色に青。菫色にマゼンタ。
時おり、花の形を維持したものや茎付きのものがある。大きさはばらばらだった。
影だと思っていた建物の隙間に、あっという間に光が差す。
思わぬ眩しさにエウルナリアは瞳をすがめた。なのに、水色の空から目を逸らせない。
次々に取り払われる細い布地。降り来る二陣、三陣。
視界を夢のような花吹雪が彩る。肩にやわらかに降り積もる。
まだ、瑞々しい香りがした。
「すごい……! あの布、飾りじゃなかったんですね? まだ、市場には花が到着し始めたばかりでしょう? どういう仕掛けですか??」
逸る気持ちのままに問う。
口許から左手を外すと、スッと目許に影が差した。
光が和らぐ。影が近づく。空と花を背に。
ちょうど上向きになっていたし、実に隙だらけだった……の、かもしれない。
(あ)
口を開け、ぱち、と瞬いた時には遅かった。半ば閉じた瞼。色素の薄い、直線的な睫毛と通った鼻筋に目を奪われるうち、唇を奪われてしまう。
――――……やられた。
通りの衆目はみな、空へと向いている。或いは降り注ぐ花びらに。敷き詰められる花絨毯に。
「ん、っ……」
ゆっくりと重ねられ、角度をずらされる。甘噛みまでされて。
目を、開けていられない。
唇だけじゃない、触れられた肩や背中。どこもかしこも熱くて溶かされるようだった。
ばくん、ばくん、と心臓が煩くて呼吸もままならない。胸のなかが締めつけられて苦しい。
抵抗らしい抵抗も出来ぬうち、温もりは離れてしまった。抱きすくめられた姿勢に変わりはない。
じっと見つめられる。
心臓が落ち着かない。
いいや? ちょっと待って。これは由々しい、おかしくないだろうかと激しく自問しつつ。
「ディ、レイ……?」
震えながら呼びかけると、この上なく嬉しそうに微笑まれた。
「いいものだな。“花ふるまい”の瞬間を下で迎えるというのも……。こんなことに浮かれられる日が来るとは、思ってもいなかったが」
視線は結ばれていたが、まなざしはどこか遠くに向けられていた。
未だ、ちらほらと散る名残の花びらを愛でることもできず。
エウルナリアは、囚われたように次の言葉を待つ。
肩から離れた手が半開きの唇に添えられ、やわやわと行き来した。止まらない。触れたままだ。
どぎまぎと身じろぎし、離れようとする少女を拘束したまま、ディレイは落ち着き払っている。
表情は切なげにも、満足げにも見えた。
「――あれは、ウィラークに住む貴族や商家連中の見栄の張り合いだ。奴ら、業者から直接摘む前の花を買い占めるのが慣例化しててな。こればっかりは伝統だからと、関所も見逃してる。
毎年、誰がいちばん長く花を降らせられたかを競うそうだ。結局、公平を期すためとかで、警備兵もあちこちの屋上に駆り出されるんだが。
俺も、養父どのが殺されるまではそこに詰めていた。……そうだな、今のお前くらいの年頃は」
淡々と。
しずかに語るディレイの瞳に自分が映っている。それは、捕まったままの右手ではない何かを鷲掴みにされているようで。
エウルナリアは低く、剣呑なほどの甘さを帯びる囁き声に耳を傾けた。かれの中の大切な記憶。懐古へと。
頬や耳たぶ、首筋に触れる武骨な指を、なぜか振り払えない。戸惑いつつも受け入れてしまう。
吐息すらもらせず、見定めるように、青い瞳を凝らした。




