192 散策(前)
(これ、一人なら絶対迷子になれる……)
街はそれ自体が迷路のようで、角を曲がるたびにエウルナリアは確信を深めた。
* * *
先ほど、子ども達に財布を掏られそうになってからしばらく。
共同の水場である泉を横目に、街娘に扮したエウルナリアは軽快に歩を進めていた。
目の前にはさらり、さらりと歩調に合わせて砂色の髪が揺れている。それが、藍色がかった墨色の長衣にことのほか映えて。
(――髪の長さだけは、切られる前のレインと同じくらいなんだよね)
ぼうっと眺めてはハッと気づき、だめだめ、と首を横に振る。その繰り返し。
自分の、よくない癖は把握している。揺れるもの、不思議なものや美しいものには無意識に手を伸ばしたくなる。我ながら習慣じみたものだった。
(今までは、それがレインだったから)
――だからこそ、軽々しく触れてはならない。特にディレイに対しては、と。つよく戒めている。
二人の距離は、前後間隔およそ二メートルを維持していた。
『一々、周りからの注目が痛いんです。絶対に見失いませんから、ちょっとだけ離れて歩いてもいいでしょう?』との姫君の無茶ぶりに、切れ長の瞳のお忍び青年王が、何とも言えぬ顔つきとなったのが、つい先ほど。
『…………。別に、構わんが』と、やや呆気にとられて答えられた所以の平穏を、いまは甘受している。(おかげで不躾な視線は、ずいぶんと軽減された)
きょろ、と辺りを見回す。
ウィラークが明確な都市計画に基づいて建設されたわけではないのは、訪れた当初から察せられた。
頑丈そうな、灰色と白の石造りの街。高架が多いのも特徴。樹は少ない。水場の近くでのみ、蔦植物が生えて緑の色合いを添えていた。
各水場を繋ぐように巨岩をくりぬいてできた小路が通り、坂がある。階段があり、街並み自体には何の統制もない。
もとは、もっと起伏が激しい山地だったと聞く。そこを、蟻のように縦横無尽に、良質な石材を求めて掘ってしまったというのだから。
まさに立体迷路。
ちなみに、横幅の広い公道は花市の立つ広場には繋がっていないという。
均すに均せなかったのだろう。随分とあとの時代に敷かれたものらしかった。
* * *
時刻は十一時半。そこそこの距離を歩いた気がする。
美味しそうな匂いを漂わせる、移動式の屋台も出始めた。人出はまぁまぁ。通行人の肩に触れぬよう、気をつけねばならない程度の密集具合だ。
(そう言えば……)
すれ違う女性の髪に飾られた青い花。遠巻きに路端で談笑する男性らの胸元を飾る赤い花。皆、ささやかに身形を整えて思い思いの花を身に付けている。
けれど、辺りにそれらしい飾りはなかった。来た路にも。石壁の印象ばかりが強い。
むくむくと膨れ上がった疑問は、すぐに確認せずには居られなくなってしまう。これもまた、どうしようもない悪癖と自認する。
エウルナリアは観念し、とうとう五、六歩先をゆく青年を呼んだ。
「ディレイ」
「ん?」
――――しまった。
本名で尋ねて、普通に応えられるのはいかがなものだろう。ちっとも忍べていないのではないか?
気を取り直して小走りで前へ。
かれの左隣へと並ぶと、覗き込むように顔を窺った。たやすく目が合う。
「式典のあと、一斉に花でいっぱいになるのかと思っていました。違うんですね? まだ、本格的なお祭りではない気がします」
「……あぁ。他所の人間には不思議かもな」
ディレイはしばらく無言だったが、すぐに口をひらいた。
「例年、『花ふるまい』は昼頃だ。建国の祭祀は本来、王と神官長がつとめる。神官長が長ったらしい美辞麗句を連ねて地上を言寿いでな。そうして神意に祝福されたとみなされれば、王の開催の辞をもって関所まで報せが飛ぶ。そこで、やっと開門だ。
こっちは城側だからそうでもなかったが、今ごろ、街の門から広場までは荷台の列だろう。ちょっとした芸人一座も来るし。騒がしいことこの上ないぞ」
「へえぇぇ……」
――想像してみる。
東のオルトリハスで、駱駝が列なすキャラバンで発った砂漠のジールまでの旅路。行く先々の町や村は、どこも門のあたりが一番賑わっていた。付随して市も立っていたし。それを更に上回るんだろうか、と。
「ぜひ、見てみたいですね」
きらきらする青い瞳を、ディレイは苦笑ぎみに眺めた。「やめておけ」と、あっさり断言する。
(?)
視線で問うと、さらに唇を歪められた。断りなく、右手を指ごと握られる。
自分の手の小ささをまざまざと知らされる。そういう、何か太刀打ちできない包まれ方だった。
「お前みたいに、華やいだ列を見たいという物見高い奴らでごった返してるんだ。不埒者に連れて行かれる……前に、相手を斬る自信はあるが。せっかくの祭りを血で汚したくない」
「はぁ」
つい、気の抜けた返事をしてしまった。
つまり、人混みのさなかで見失う(或いは人拐いに遭わせる)わけにはいかない、という配慮だろうか。
「…………」
要領を得ない少女に、ディレイは無言で立ち止まる。意外なほどの優しさで握った手を引き寄せた。




