190 わがままの代償
ひんやりと乾いた空気に石畳からの反響。シャンシャンシャン……と遠く、鈴の音が聴こえる。
わぁっ! と短い歓声のあと、五、六名の子どもらが脇を通り過ぎて行った。
「……あっ」
「危ないぞ」
ふいに上腕を引かれた。
たらん、と垂れた色とりどりの布が向かい合う建物の屋根を伝い、何枚も頭上に渡されている。
風に揺れ、抜けるような空に彩りを添えるそれらを惚けたように見上げていたときのことだった。
とっさにバランスを崩してしまい、気がつくと、腕を引っ張った張本人にしがみつくように寄りかかっている。
(だめだめ。良くない)
急いで体勢を立て直し、身体をしゃんとさせると、思いのほか真面目な顔のディレイに覗き込まれた。
「油断するな。あいつら、あぁ見えてスリだ」
「えっ」
七、八歳くらいの子も混じっていた。上は十歳ほどか。小さな背の一団は、あっという間に人波の向こう側へ。
みるみるうちに坂を下った先の小路を曲がってしまい、いまや影も形もない。
さぁあ……っと青ざめたエウルナリアは、慎ましやかな街娘らしい刺繍付きワンピースに斜め掛けした革製のポシェットを確認した。――大丈夫。蓋はこじ開けられていない。
ほっと安堵の息を吐きつつ顔を上げる。
今度は、じぃっと茶褐色の瞳を見つめた。
「……何も、されてませんよ?」
「当たり前だ。やられる前に俺が引っ張った」
「なるほど」
神妙な表情で頷いた少女は、ちいさく礼を述べて身を離した。
青年も「あぁ」と鷹揚に応じ、どこまでも泰然とした態度を崩さない。
ひと目を引く砂色の長い髪は背に流したまま。濃い色合いの長衣の前釦は全て外し、粋に羽織って腰の長剣を目立たなくさせている。
『ちょっとばかり羽振りのよい商会の、若旦那風を目指してみました』というよくわからない主旨のもと、ほくほくとしたヨシュアが選んだ衣服の一揃いは以下の通りだった。
藍色がかった、縁に蔦模様の刺繍をほどこされた濃い墨色の長衣。
同色のシャツ。
灰銀のサッシュベルトにグレーのズボン。いつもの皮の剣帯。
ブーツはなめらかな濃いグレー。
なんということはない取り合わせだが、長身で手足の長いかれには、とてもよく似合った。
筆頭内侍官どの会心の出来映えなのだろう。
結果、着替えを終えたディレイは、本人も意図せぬ微妙な変装感まで醸していた。――つまり、かれを知る者も知らぬ者も、会えば必ず振り返り、凝視せざるを得ないような。
(全体的に“違和感”っていうか……もの珍しさではお祭りの景観を上回るのよね。格好いいんだけど。ちょっとチャラい………………気がする。遊び人風? ヨシュアさんって、意外にお茶目だわ……)
それに素直に袖を通すあたり、とてもディレイらしい。『丸腰でなければ何でもいい』とまで言っていた。
当たり前だが街中だ。身分を隠してのお忍びなので、王侯貴族然としたエスコートはない。
城下で暮らす一介の民らしく、のびのびと振る舞うディレイは呼吸そのものが楽そうだった。普段、刃のように張りつめた硬質な空気が別人のように和らいでいる。(それでも、スリの気配にはあっさりと気付けるわけだが)
「――行くか。無制限に時間があるわけでもなし」
「あ、はい。そうですね」
与えられた――あるいは与えた刻限は日没。そのあとは城で、レガート以外からも招かれた他国の賓客や、主だった貴族を交えての公式の宴となる。
再度、広場に向けて歩き出した二人は、ものの見事に周囲からの強い関心と視線の嵐に晒された。
面白いのは誰も『そのこと』に言及しないことだ。小声ですら呟かない。見ているのに、見ないふり。
自国の王が、どこぞの少女を伴ってあからさまに“お忍び散策”を決行中だというのに。
――いや、だからだろうか。
(また、いっぱい背びれ尾びれを生やした噂が本国まで届くんだろうな……)
こっそり苦笑いを浮かべると、めざとくディレイに見咎められた。
「どうした」
「いえ何も」
つん、と澄まして答えると、高い位置にある横顔がひどく穏やかに笑みを刻む。
いとおしげに。
(……ずるいなぁ……)
結局は、かれの思惑通り手のひらで転がされている気がする。
こうして隣を歩くと、まるで本当に国もつとめも関係のない、一組の男女のようで。
ひそやかに吐息をもらした少女は、今度こそ見つからぬよう、柔らかな黒髪を頬の横で揺らして頭を振った。
* * *
「えっ……、エルゥ様が?」
「あぁ。うまいこと持ってかれちまった」
城の南棟。
窓からの日差しが角度を変え、光がやさしく目に染み入る室内で、レインが大きく目をみはった。
寝台で、背にいくつもクッションを当てて体を起こしている。膝の上には小ぶりな花束と焼き菓子が入った水色の袋。
グランからのノックや、入室の声かけは無かったと思う。
開口一番、「よ。これ、手土産な」と、ぞんざいに渡された二品だ。
袋には薄様の紙を折り畳んだ手紙が添えられており、筆跡からして差出人は主の少女と察せられた。曰く。
「……“レガート・アマリナ両国への鷹便の代価として、陛下から街歩きの供をせよと命ぜられました。
式典後、控えの館でえんえん対決しておいでだった父からは『瑕のないお帰りを。勿論双方ね』と念押されていましたから”……」
――――たぶん大丈夫。行ってきます。
締めくくられた文言には、残念ながら問題しかない。
わなわなと手が震える。ついでに読み上げる声も、おそろしく低められた。
「『たぶん』って。……無理でしょ、絶対『大丈夫』じゃないでしょう…………?!」
ぐしゃ、と手紙を丸めるわけにもゆかず、レインは寝台の上に勢いよく突っ伏した。背中の傷に障ったようで、「いつっ!! て、痛て……!」と盛大に呻く。
「完全同意だわー」
赤髪の幼馴染みは、何とも言えない笑みを浮かべ、窓から外へと視線を投げかけている。




