188 花よりも(中)
トランペットの残した華やかな和音の吹き伸ばし。その名残が消えぬ間に、エウルナリアはゆっくりと息を吸った。
拍数を数えたりなどしない。すべて感覚だ。
歌い始めるといつも、“己”が消え去る瞬間がある。
と、同時にとても醒めた自分がいて、たえず耳を澄ませ、“場”を確認している。
おかげで細かな強弱や音程、動作による演出は即座に判断できた。その緊張感も快いと感じてしまうのは、困った音楽家の病だよね、と、父はこぼしていた。
若干呆れたように。概ね、幸せそうに。
リハーサルでも試した『旅の伴に。餞に』は、家を巣だった子を思う母の歌だ。染み入るような旋律はエウルナリアの好むところで、歌い上げると純粋に気持ちがいい。
幼い頃、南国セフュラの港湾都市で見た、本物の海。
砂浜を寄せては返す、ゆったりとしたテンポ。息継ぎを感じさせない独特の節回しと言葉のリズムにも、この曲の魅力はある。
弧を描く、高い天井。
反響し、循環する声を冷静に聴きながら、エウルナリアは『母』に関する記憶を探り――ちく、と針で刺したような痛みを感じた。
今も首から下げている、胸元を飾るロケットペンダント。その絵姿のみを残して亡くなった母、ユナを思い浮かべて。
(想っててくださったのかしら。……お母様も。この歌みたいに)
やがて、リハーサルの時よりもあっさりと最後のフレーズを終えたエウルナリアは、そぅっと瞳を開けた。
――居並ぶ人、ひと。皆、こちらを見ている。
全方位ぐるりと聴客の壁であること。
ざっと、かれら全員と視線で繋がれたことを確認し、改めてにこりと笑む。
ほほ笑みを。
歌を。
私には、これしかないから。
(いまこの一時、あなた方に届けられるのはこの声だけ。せめて、それを残したい。明日へと繋げてほしいの)
* * *
(……っ、……)
歌の終わりを悟り、あわてた誰かが拍手をしようとした。
そのぎりぎりの間合い。間隙を突いてアルムが一歩前へと進み出る。
エウルナリアの隣に並び立つと、それまで抑えていた気配が霧散し、雄々しく華やいだものへと変わった。――三十路後半を越えてからと言うもの、歌うときの歌長はいつもこう。
黒髪の歌長は清かに頭を上げると、左手を掲げた。おごそかに、神意を受けた王のように。
柔らかな笑みを刻む口許からは、とある古謡に乗せたメロディーが流れ始めた。本来と少し違う。即興の歌詞だ。
“――かつて かれもまた 幼子であったろう
名は知れず されど偉業を残せり”
”――かれもまた 時に故郷を思ったろう
進む道筋 覇道のさなかで“
エウルナリアが、すかさず応じる。
やはり即興詞。同じ韻で。
(!)
人びとは、一斉に夢から醒めたような面持ちになった。
今の今まで歌姫の姿と声に絡めとられ、恍惚としていたものから“我”を取り戻し、ハッと打たれたような表情へと。
――現実味を帯びた故事になぞらえた、それに。
歌長と歌姫の掛け合いは、しばし続く。
男声と女声パートの配分も、本来の古謡からは幾分か変えていた。
打ち合わせは昨晩、寝る前のわずか小一時間ほどだったが、流石と言うべきか。
(息、ぴったりだな……)
円柱の外側で、楽士服をまとったグランが内心、舌を巻いた。
歌声もさることながら、二人の、聴客の心の掴みかたが絶妙だ。
『これ』が皇国楽士団を率いる当代団長アルムではなく、ほぼ娘のエウルナリアの発案というのだから。
――初めての独奏を終えた高揚もあり、グランの心はこの上ない歓びに満たされていた。
惚れている。
惚れた欲目? 甘んじよう。このままずっと、彼女の歌に酔いしれたい。
(生きてる間中、結局は死ぬまで。俺は変わらない。やっぱり、エルゥが好きだ)
――――たとえ、触れられなくても。
想うことと、相手を守ることは両立できると肚の奥底で知覚した。たぶん、間違ってない。
旋律が終わりに近づいてきた。
トランペット隊は各々、目配せしあう。
(せぇ、の……!)
年長者のベルの、わずかな上下動作。
それだけで楽士らは、同じタイミングで相棒を唇にあてがい、円形劇場の中央に向けて終幕のメロディーを添えた。
グランのフリューゲル。トランペットのファーストからサードまで。計四名の、完璧なアンサンブルが後背からも人びとを包む。
魔法のように。
うっかり、今日が何の日だったかも忘れるほど魅了された聴客の脳裡に、まざまざと古レガートと称される時代の英雄が描かれた。
音がきらきらと、光を振りまいて消える感覚。
惜しむように、少しずつ。
やがて唐突に、ドッ…………!! と、地鳴りと聞きちがうほどの拍手が鳴り渡る。止まらない。熱狂を含む、民の歓喜の嵐だった。
「……!」
奔流のようなそれに身を委ね、未だ頬を紅潮させ、うっすらと汗ばむエウルナリアは、とても幸せそうな笑みを浮かべた。
呼応するように熱烈な歓声が。口笛までが彼女に降り注ぐ。
『……おつかれさま?』と、労うような微笑でアルムが娘の手をとった。
心地よい疲労感。たしかな手応えを胸に視線を交わし、似通った容貌の二人は前を向く。
それから四方に向けて深々と、父娘はありったけの感謝を込めて、奏者の礼を送った。
――――――
演目を終えて、頭を垂れる二人には見いだせなかったけれど。
円柱の隙間から光差す人垣の上辺。
地上に近い端近の席に、肩を震わせ、嗚咽をこらえる一人の女性と、彼女に寄り添う片眼鏡の薬師の姿があった。




