187 花よりも(前)
お祭りの朝は特別。
大人も子どももみんな晴れ着に身を包み、大神官様の「ことほぎ」のあと、思い思いに用意しておいた花を飾る。
広場や道々に敷き詰められた花びらの絨毯は、とっても柔らかい。けど、できるだけ踏まないように。避けなさい、と教わった。
あちこちの露店を覗いてはひやかし、友達と一緒に練り歩く。それでもお店の人は「よい祝日を! 神々の愛し子」と、にっこり笑ってお菓子をくれた。
日が暮れても、ほうぼうで灯りを点して街は眠らない。
次から次に花がかさねられ、香も焚かれて良い匂い。ずっと、ずぅっと天高くにお住まいの神様がたへの捧げ物なんだって。
――でも、誰がこんなにたくさん道にまいたの? まさか、街を飾るために王様がお買い上げに?
昔、手を繋いだ母に訊ねたら、フフッと笑われた。
――あれはね、王様じゃなくて、お金持ちの仕業なの。天の神々の目に留まるように、広く功徳を示すことで来世への業を軽くするんですって。“施し”……に、近いのかしら。
花売りさんには、かきいれ時ね。お花はね、この日のためにお山の広い野原で、丹念に育てられてるんですって。
母は物知りだった。必要なことは大抵教えてもらえた。
母は、もとは裕福な商家の娘だったという。
けど、おじい様やおばあ様はもういなくて。
神殿で下男として働く父と、針仕事で家計を助ける母。そうしてささやかな糧を得ていた暮らしは、貧しくとも笑顔を絶やさなかった母が突然『消えた』ことで終わりを告げた。
あまり評判のよくなかった貴族のお邸に、針を刺し終えた品を届けてそれっきり、帰らなかったのだ。
父は人が変わったように荒れて、家に帰らなくなった。ウィラークの街の片隅にあった、小さな借家からも追い出されて。
「親父さん、だめだね、ありゃ。博打なんかに逃げて……ごめんよ」と、申し訳なさそうに大家さんに謝られた。
気がつくと、知らない誰かの手に引かれ、地下貧民窟の奥へ。いつの間にか身柄を売り渡されていた。
代金を手にしたのは父? それとも大家さんだったんだろうか。
――わからない。
ぼうっと、急ごしらえの救護院にはめられた透明な窓硝子越しに外を眺めていると、背に声をかけられた。
「アーリャさん」
「……?」
「今日は建国のお祭りだそうよ。貴女方には自由がある。出かけたっていいのよ? どうかな、気晴らしに」
「…………」
片眼鏡の薬師の女性は、気遣わしげに小首を傾げた。
窖から助け出された夜のうちに、てきぱきと私達を診察してくれた。何くれとなく面倒を見てくれる、優しい人だ。
それでも力ない微笑みしか浮かべられず、私は俯いて首を横に振った。行きたい気もする。でも怖い。
――いつの頃からか、声を失ってしまった。話せないし。
「そう。ううん……じゃあ、こうしましょう。あのね、動けない人もいるでしょう? 衰弱が激しくて。けど、彼女達にも今日が何の日かは教えてあげたいわ。私と一緒に広場まで来てくれる? 花を、買いましょう」
「?」
――はな? 開催のことほぎのあと、市場にあふれる花のこと? でも、神殿は斃れたと聞いたわ。私が、子どもから大人になるまでの間に。
戸惑う私を包み込むように、異国の装束をまとった女性はまた一歩こちらに近寄り、話してくれた。窓からの朝日を弾いて、銀糸の縫いとりをした青い飾り帯の星が、ちかりと瞬いた。
「たくさん、たくさん買いたいの。私だけじゃ持てないわ。運ぶの、手伝ってくれるでしょう? アーリャさん」
「……」
なるほど、と合点が行く。
取るに足らない自分だが、それなら優しいこの人を助けられるかもしれない。
アーリャは是非もなく頷いた。
「あ。始まった」
(…………音?)
はぐれぬよう、そっと手を繋いで歩く低い木立の整えられた敷地内。面影はあまりないが、過日の主神殿跡地だという。現王は、将軍の養い子だったそうで……とにかく、即位後初めて執り行われる建国の式典なのだとか。
耳を注意深く澄ませた。
すると風に乗り、風よりも鮮やかに、一条の光に似た晴れやかな音が体を突き抜け、心に飛び込んだ。
喇叭だ。
「……!」
足が止まる。思わず目をみはる。
前方の斜め向こうに人垣が見えた。皆、精一杯の晴れ着だ。記憶どおりの景色に、少し安堵する。
「行く? ちょっと聴いて行こうか。外側に近い場所なら空いてるかも」
こくん、と首を縦に振る私に、片眼鏡のひとはニコッと微笑んだ。「おいで」と導かれ、近づいたのは大理石の白亜のドーム。
円柱がぐるりと囲む外側に――四名。喇叭を持つ見目よい楽士。うち、一人の音色だった。
(きれい)
軍の行進時など、出兵の際の猛々しい印象が強かった音色は、かれが奏でると全然違って聴こえた。本当に同じ楽器なんだろうか? もっと柔らかい。空気までキラキラして見える。
もっと心まで。もっと伸びやかに。果てない、空の彼方まで。
花よりも香よりもなお、かれの奏でる音のほうが神々に届く気がした。
やがてかさなる音色。和音。華やかに重厚に。威圧、ではない。ただただ圧倒される。
いつしか聞き惚れ、どきん、どきんと胸が脈打ちはじめた束の間の余韻。空白のあとで。
――――――ァァアアアーーー……
ドームのなかから、ちがう音が繊細に場を塗り替えていった。豊かな抑揚をつけて瑞々しく響く『それ』が人の声だと、なかなか認識できなかった。……歌?
同じように、食い入るように見つめる人びとの視線の先。すり鉢状の階段客席に囲まれたはるか下で、凛と立つ少女がいる。傍らに男性。
目を瞑り、朗々と歌い上げる彼女こそが、この声の主なのだと。
アーリャはその時、ようやくわかった。




